長雨
ミーティングを終え、視聴覚室から聖秀野球部の部員達がぞろぞろと姿を現す。大河はメモや資料をまとめ終えると軽く辺りを見渡し、ズボンのポケットから鍵を取り出してガチャンと施錠をした。
開始前までは小雨程度だったのに、たった数十分でバケツを引っくり返したような激しい雨へと移り変わっている。先を行く部員達から離れて廊下を歩いていた大河は、窓を叩く雨粒をうんざりした表情で見つめていた。
あーあ。
天気予報をろくに確認せず、いつものように自転車で通学したのが運のつきだった。全身濡れ鼠になりながらバスまで駆けていかなければならない。
そう遠くない未来がありありと浮かんでしまい、大河は盛大なため息を吐いた。
叩きつけるような激しい雨粒の音は徐々に聞こえなくなり、その代わり窓の外から射し込む光が少しずつ明度を落とし始めていた。
下校時間が差し迫っている上にこの天気だ。何の気はなしに他の学級の教室へ目を向けると、がらんとした空間に机や椅子だけが静かに並んでいる。その横を通り抜けながら、いつもよりしんと静まり返った廊下を大河は一人進んだ。
ミーティング後よりかは幾分小康状態となったため、帰り道はだいぶ楽になるだろう。かといって雨にさらされながら自宅までの数十分の道のりを自転車で行くは気が引ける。
やっぱりチャリは置いてかねーと。頭をがしがしと掻きながら昇降口に辿り着くと、傘立てにあった桃色の柄を掴みながら降りしきる雨へ視線を向ける、大河のよく知る黒髪ロングヘアの女子生徒がいた。
「まだ帰ってなかったのかよ」
「清水くん」
お疲れさま。ん。簡単な挨拶を交わし、大河は自分の靴箱からスニーカーを取り出した。
さっき出た意見とスコアを照らし合わせてたら遅くなっちゃって。大河の言葉に苦笑しながら経緯を告げると、綾音は再び視線を外へ向けた。
ミーティングが終わった後出た意見を書き留めていた綾音は、大河が視線を向ける間もなく資料を抱えて一番に視聴覚室を後にしていた。何か用事があるのだろう。綾音の行動にそう当たりをつけていたのだが、別にそういうわけではなかったようだ。
あれから小一時間、教室にいた大河は一度たりとも隣の席である彼女の姿を見かけなかった。鞄も机に掛けられていなかったので、とっくに帰路についていると思っていたのだが、どうやら部室に籠って作業していたらしい。
相変わらず仕事熱心というかなんというか、練習もないんだからさっさと帰ればよかったのに。しかし元来の真面目さと野球部への情熱を知る大河は、彼女へそれを告げることはしなかった。
部のことを考え的確な行動をしてくれるマネージャーとしての働きっぷり、人一倍聖秀野球部を大切に思う彼女らしさは今に始まったことではない。
それに彼女のことをとやかく言えはしない。結局、自分も彼女と一緒なのだ。
雨宿りが主な目的ではありつつも、ミーティングで出た反省や課題点を盛り込もうと練習メニューを見直していた大河は、暗くなってきた外を見て現在の時間を把握したのだ。きっと彼女も似たようなものだろう。
まだひどいね。灰色の雨雲を見つめながらふう、と息を吐くと、綾音はバッと傘を開いた。まだ一滴も雨粒が付いていない桃色の傘は、これからあっという間に濡れきってしまうのだろう。
「清水くんもバスでしょ?」
こんな天気だもんね。綾音の質問に「まーね」と返しながら、つっかけたスニーカーを踵まで履いた。
傘は? と目だけで問いかけてきた綾音に、彼はショルダーバッグを頭に乗せる。
「今日チャリだったからさ。まあこれくらいの雨ならなんとかなるっしょ」
じゃ、お先。くるりと背を向け、濡れたコンクリートを足を踏み入れると、「待って!」と声を上げて綾音が彼の側へ駆け寄ってきた。
「しょうがないなあ」
はい、と綾音は濡れるのも厭わず、ショルダーバッグの上に傘を差し出した。別にいい、と彼が口を開くよりも先に、有無を言わせぬようにっこりと笑いながら桃色の柄を彼の身体に近づけた。
「一緒に帰ろ。狭くても我慢してね」
「あっ!! 清水くん肩!」
他愛のない言葉を交わしていた綾音がふと大河を見ると、制服の半袖が雨水でぴったりと張り付いてしまうほど左肩が濡れていた。
身長差はそれほどないとはいえ、違う性別であるが故に体格差は生じてしまう。綾音の持つ小さな傘では二人をカバーすることはなかなか難しい。濡れる面積が狭くなるよう、綾音は握っている彼の手からはみ出た傘の柄の一部に触れると少しだけ傾けた。
大河はそんな綾音を面倒くさそうに一瞥し、「これくらいいいって」と彼女へと押しやった。事実、気にするほどのものでもない。二人で使っていたらこうなるのは目に見えていたことだ。それに男の自分が全く濡れてなくて、女のこいつがびしょ濡れになるのは格好がつかなすぎて、さすがに避けたい。
そのような思考に至った故の言動だったのだが、言葉少なに告げられた意図に綾音は思い至るはずもない。彼女は眉を寄せつつ柄に触れた。
それだと清水くんがもっと濡れちゃうじゃない。彼の言動に少しだけむっとしながら、今度は身を乗り出しながら先程よりも強い力で大河の方に傘を傾けた。
「私はちゃんと傘に入ってるから大丈夫だよ、だからもうちょっとそっちにやって」
「いやいやそれじゃマネージャーが濡れるじゃん。あんたの傘なんだから、あんたがメインで使うべきだろ」
握っていた柄に力を入れ、しかめっ面になりながら大河は綾音へ差し出した。そうこうしている間にも、肩はおろか彼の頭上に雨が降り注いでいる。その姿にいよいよ我慢ならず、綾音は銀色の中棒を手の平で押しやりながら跳ね返る雨粒の音に負けじと声を張り上げた。
「私はいいの! 清水くん肩冷やしたら良くないでしょ? 体調管理もマネージャーの仕事です!」
「んなヤワな作りしてねーしちゃんとケアするっつーの! それよかマネージャーがずぶ濡れになって風邪でもひいたら部が回んねーよ! キャプテンとしてそれは困る!」
「なによ、いつもは自分のこと“キャプテン”なんて言わないくせに!」
「誰がそれを言わせてると思ってんだ!」
「んもう! 清水くんってば意地っ張り!」
「あんたにだけは言われたくねーよ!」
桃色の傘は真っ直ぐに差されることなく、右へ左へと繰り返し動き続ける。
二人の目的地であるバス停は、残り数十メートルというところまで差し掛かっていた。学校からバス停の停留所まで十数分という距離も、二、三分弱で辿り着けるだろう。しかし、そのことに気づく様子は見られない。靴に染み込んだ雨の気持ち悪さも忘れ、傘の下でお互いに声を張り上げながら、大河と綾音は歩みを進めていた。
降りしきる雨は止まることを知らない。
数人の乗客が今か今かと待ちながらバス停で並んでいる。その内の一人、「もうすくだな」と携帯電話の画面を開いて時間を確認していた服部は、聞き慣れた声に顔を上げた。
「何やってんだあいつら……」
高校生の男女が一つの傘に二人で入っている姿なんて端から見ればカップルそのものなのだが、
――ありゃただの子どもの喧嘩だな。
一時間程前まで一緒にいた同じ部活のキャプテンとマネージャーが、半ば桃色の傘を押し付け合いながらこちらへ近づいてきていた。
せっかく傘を差しているというのに、まるで意味をなしていないではないか。傘が大きく左右に揺れるために、雨粒が二人に降りかかっている。正直、ほとんど雨を凌げておらず、二人がびしょ濡れであることは少し離れた自分から見ても明らかだった。
普通、相合い傘とかしてたら、それなりに甘酸っぱい雰囲気になるもんじゃないのか?
一体どこから突っ込めばいいのか分からず、くらくらしてきた頭を支えようと、服部は額に手を当てた。
十分に視線を集め、注目の的となっていることに全く気づいていないのか変わらぬテンションで口論を続ける二人。むしろ服部の目には、一歩ずつ近づいてくる度にヒートアップしているようにも見えた。
ああなると長くなるのは経験済みだが、なにせここは学校ではなくバスの停留所という公共の場だ。二人とも常識は持ち合わせているだろうが、全くもって残念なことに節度ある言動へと切り替える様子は見られない。
ぎゃあぎゃあと今もなお続く口喧嘩に他人の振りをしてやり過ごしたい気持ちでいっぱいになりつつも、ああなった二人を収められるのは今のところ同期である自分しかいないということもまた、服部はすでに自覚している。
学校の外でもあいつらの面倒を見なきゃいけないのか。携帯電話の画面を閉じることも忘れ、服部は思わず天を仰いだ。
「お前らってほんっとバカだよな」
バスに乗って開口一番、服部の口から出たのはため息混じりの声だった。
「通り道にコンビニあったじゃん、そん時傘買えばよかったのに。それかタオルでカバーするとかさあ」
それくらい持ってたろ、元々練習の予定だったんだから。
揺られる車内の片隅では、端々から呆れを滲ませた服部の言葉が次から次へと流れていく。くどくどと続く服部の言葉に耳を傾けながら、ぐうの音も出ないのか大河と綾音は示し合わせたかのように明後日の方向へ俯いた。
そんなことにも気づかずびしょ濡れになったことへ気恥ずかしさを感じているのか。往来で年甲斐もなく口論をしたことを反省しているのか。俺は悪くない、私は悪くないとでも思っているのか。あるいはそのどれもなのか。
ったく、と言葉を切った服部は、一応見た目は項垂れているような二人の様子に思わず口許に弧を描いた。
全く、似た者同士なんだから。
それを言えば、きっと「そんなことない!」などと声を合わせて言うのだろう。容易に想像できる二人の姿に、服部はぷっと笑いを漏らした。
そんな同級生に大河と綾音は怪訝な表情を服部へ向ける。が、車内の冷房に濡れた身体を刺激されたのか、次の瞬間、
「「へっくしゅっ!」」
車内に響くほどの大きなくしゃみを同時にし、向けられた乗客の視線から逃れるように窓へ視線を向けた。
やっぱり似た者同士じゃねーか。
服部は車内だということも忘れ、今度こそ笑い声を上げた。