三人
「よ」
「服部……」
「服部くん……」
教室へ戻ってきた二人に軽く手を上げながら、目を大きく見開かせて俺の名前を呼ぶ二人にふっと苦笑を漏らした。そんな驚くようなことだっただろうか。
教室を駆け出し真っ直ぐ屋上へと向かう鈴木の姿を見かけたのは数十分前のこと。その後そろって教室へ戻ってきた二人を包む柔らかな雰囲気にぴんときた。
そうか、やっと終わったのか。
「お前らやっと、キャプテンとマネージャーじゃなくなったんだな」
「え?どういう意味?」
「何言ってんだよ。そんなん去年の夏で引退したんだから当たり前じゃん」
「や、そうじゃなくて、」
分かってねえなあ。普段はそこまで鈍くないくせに。
「お前らの関係がってこと」
言った途端さっと顔を赤くして俯く二人に、こらえきれず噴き出してしまった。
全く、気づかない訳がないだろう。
どんだけやきもきしたと思ってんだ。そうなじりたくなる一方で胸の底にじんわりとした温かさが広がっていく。
誰よりも長く二人のそばにいた俺だからこそ、一線を越えることに対する二人の葛藤や苦悩を理解していたつもりだ。
二人にとって聖秀野球部は間違いなくかけがえのない「居場所」で、「キャプテン」と「マネージャー」という二人の関係は非常に強いつながりだっただろうと思う。それが悪いとか、そういうことでは決してない。けれども夢を実現させるために、目標を遂行させるために彼らが手放してきたものは確かにあるはずなのだ。押し殺してきた想いも、握りつぶしてきたチャンスもたくさんあっただろう。きっと俺が知らないところでもあったに違いない。私情よりも、その関係や空間が壊れてしまうことの方が何よりも恐ろしかったのかもしれない。
当人達の鈍さもあるだろうが、それ以上に「キャプテンで在らねば」「マネージャーで在らねば」という役割を全うしようというある意味強迫観念のようなものがあったんじゃないか。
だが、そのような日々はもう訪れることはない。ようやく聖秀野球部から、キャプテンとマネージャーから「解放」されたんだろう。
よかった、本当に。
「さー帰るか。飯食ってこうぜ」
「そうだね、服部くんは何がいい?」
「つっても金ねーし、この辺だとマックとかファミレスとかになるけど」
「は」
何言ってんだこいつら。ようやっとくっついたばっかだろ。お邪魔虫は消えるから二人で一緒に行ってこいよ。
できたてほやほやのカップルにホイホイついていくほど野暮じゃねーぞ、俺は。
「や、いいよ俺は。二人で行ってくれば」
「あ、もしかして用事あった?」
「そういう訳じゃないけど」
鈴木はきょとんと、大河は怪訝そうに口を尖らせたまま顔を見合わせた。俺には見える。二人の頭に浮かぶいくつものクエスチョンマークが。
まずい、こいつら全く分かってない。
「それなら別にいいだろ、最後くらい」
「せっかくだしみんなで行こうよ。学校帰りに三人でご飯食べることなんてこともうないでしょ?」
「いやいやいや」
「なんだよ、付き合いわりーなぁ。一緒に飯食うのそんなに嫌な訳?」
こっちは気ィ利かせてやってんだよ!
片手で顔を覆いつつ、盛大にため息をついた。思い返せばこいつら、部員達からのこの手の細やかな気遣いもことごとくスルーしてきたんだった。
当の本人達を除けば大河と鈴木の気持ちは部員内に筒抜けだったので、後輩達が気を遣って二人きりにしようと策略するのはまあ当然の帰結というか、予想の範囲内のことだった。問題は当の本人達にはその意図が全く伝わらなかった、ということだ。
気を利かせてあれやこれやと画策したはいいものの二人には何の効果もないどころか、その全てがあらぬ方向へ発展して、しまいには大河から理不尽に怒られて散々な結果に終わる、というのが常だった。半ば面白がって気遣った後輩も、最終的には「服部先輩~あれなんとかしてくださいよ~」と泣きつかれたのも一度や二度ではない。
「触らぬ神に、ってやつだ」
「あの二人のことどう思ってるんすか?」と尋ねられる度に決まってこう答えていたが、先輩って案外冷たいっすね!と事情を全く知らない者からケラケラと笑われたものだ。
うるせえ、これが一番角立たないし被害状況も最小限に抑えられるんだよ。
俺の言葉を聞いても尚気を利かせようとするお節介なやつや面白がって突撃するやつも、しばらくすると同じようなパターンに陥って助けを求めるようにこっちを見つめてくるもんだからやむなく仲介役に入ったこともある。興味本位でわざと突撃したやつは「自業自得だろ!」とバッサリ切り捨てたが、純粋に二人を思いやって声を掛けたやつには「ご愁傷様」とひたすら宥めたこともあったっけ。
我ながら余計な気苦労ばかりしている気がするな。過去の自分をしみじみと振り返りつつ切ない感傷に浸っていると、二人はそっちのけでファミレスにするかマックにするかという果てしなくどうでもいい口論に発展していた。経験上、分かる。こうなると長いのだ。
そしてその間に立つヤツも決まっている。
ったく、しょうがないな。
考える間もなく、「はいはいはい」といつものように二人の間に割って入って「飯だけど!」と無理やり矛先を俺に向けさせた。ジトっとした四つの目に構うことなく言い放つ。
「俺! 今牛丼って気分だから!」
瞬間、四つの目が驚きで丸くなり、俺らの間にしばし無言の空間が生まれる。
あ、もしかしてまずった?胸の内に少しだけ焦りが広がった。けれども、そんな心配は無用だったらしい。ぷっと二人は同時に噴き出し、くすくすと笑い始めた。
「しょうがねーなぁ」
「それならそうと言ってくれればよかったのに」
こっからだとどこが近いっけ?確か駅前にもあったよね。つい先程までの口論などまるでなかったかのように、二人だけで着々と話を進めていく。
おいおい、今までのは一体何だったんだよ!
心の中で突っ込みつつも、二人は示し合わせたように自分達の荷物を手に取り、足早に廊下へと歩を進めていく。いや、いくら何でも早すぎやしないか?どんだけ切り替え早いんだよ。あまりの展開の早さにあっけにとられて立ち尽くしていると、二人がドアからひょっこりと顔を出した。
「何してんだよ、行くぞ」
「行こ、服部くん」
「お、おう」
全く、このフットワークの軽さには舌を巻く。せっかくの俺の気遣いも台無しだ。いやそもそも、今のこの二人には『デート』という単語が丸っきり頭にないんだろうな。軽く息を吐きだしながら、二人の後に続いた。
ま、いいか。
心なしか軽い足取りで、廊下を突き進んでいく。
引退しようと卒業しようと、二人の関係が変わろうと、俺の役割は変わらないらしい。二人の中には当然のように俺がいて、逆に俺の中にも二人は当たり前のように存在していく。
顔を合わせたり他愛もないことで笑い合ったりすることはきっと減ってしまうが、それでも俺達が過ごしてきた日々や築いた関係は、何一つ無くなったりしない。
先のことなんて見えない。変わらないものなんてあるはずがないことも分かっている。これまでとは全く違う日々に身を置くことで忘れてしまうこともあるかもしれないけれど。このことだけは、俺の存在をよしとする二人が「確かにここにあった」のだと証明してくれるだろう。思い出させてくれるだろう。
陽だまりによって温められた風が頬を撫で、歩んだ跡へと吹き抜けていった。