バトン





「――卒業生、起立」
 どこまでも薄く広がる青の下で桜のつぼみが色づき始めた今日の良き日に、全国の高等学校で卒業式が執り行われる。そして聖秀野球部第三期生である彼らもまた、同様に門出を迎えていた。



「新キャプテンとして先輩達に恥じぬよう、精一杯努力していくつもりです」
 いつぞやどこかで口にしたような台詞だと、新キャプテンである渋谷の言葉に耳を傾けながら大河は首を傾げた。
 ――そうだ。
『先輩の皆さん、色々とありがとうございました。先輩たちの残してくれた聖秀野球部の灯を絶やさぬように、これからも頑張っていきます』
 俺、そういやあんなこと言ってたっけ。


『なんか大河らしくねえな』
『新部長さん、お熱でもあるんですか~?』
『明日は雨かな?』
『雪だろ』
『いや~ん遊びに行けないじゃん! 困る~』


 田代先輩達もこんな風に聞いていたのだろうかと、同じ立場となった自身であるからこそ感じるこのむずがゆさに思わず肩をすくめる。
 知らず知らずのうちに苦笑が漏れていたらしい。言い終わった途端、それまでの精悍で真剣な表情から一変して、元来の砕けた口調と不機嫌そうな表情で渋谷は言った。
「何すかキャプテン、その意味深な笑み。どーせらしくねえなとでも思ってんでしょ」
「よく分かってんじゃん。なあ」
 大河は同意を求めるように渋谷の言葉を聞いていた両脇の卒業生を見やって声をかけた。笑みを浮かべてうんうんと頷きながら、服部と綾音もまた昔の先輩達と同じようにして立て続けに軽口をたたく。
「せっかくの小春日和なのに、明日はまた冬に逆戻りかもしれないな」
「それはやだなあ。色々予定立て込んでるのに」
「服部先輩と鈴木マネージャーまで言うことないでしょ!」
「普段のお前を見てたら誰だってそう言うって」
 笑いをこらえながらにやにやと言う同級生に対して「うっせーな、お前らに言われなくたって俺が一番分かってるっつーの!」と若干頬を赤らめながら吐き捨てる渋谷に、グラウンドからどっと笑いが湧き出た。
 


 吾郎達が卒業してから二年間。聖秀野球部を引き継いだ大河らは、結局、海堂と会い見えることのないままグラウンドを後にすることとなった。
 聖秀野球部キャプテンとして、吾郎のように「責任」を果たすことができるのだろうか。
 聖秀野球部員として、田代達のようにキャプテンを支えつつチーム一丸となって夢を追いかけることができるのだろうか。
 聖秀野球部マネージャーとして、美保のように聖秀野球部を明るくサポートすることができるのだろうか。
 三人はしかし、それぞれ不安を抱えつつも歩みを止めることはしなかった。
 時に諍いを繰り返し、その度に言葉と心を通わせた。
 いがみ合い、傷つけ合いながら夢に向かって喜びを分かち合った。

 ……そのような日々は、あっという間に駆け抜けてしまったけれど。


 叶えたかった願い、追い求めていた景色。
 「打倒海堂」という目標。
 
 「みんなと一緒にいつまでも同じ夢を見続けたい」というこの想いを、卒業する三人は持ち出すことなくここに置いていく。彼らの居場所はもう、ここではない。綾音も、服部も、そして大河もそれぞれの目指すべき道へ向かって進んでいくのだ。

 「茂野先輩の雪辱は俺が果たしてやるぜ」なんて、結局自分の力不足のせいで達成することなんかできなかったくせにどの口がそれを言うんだ、と昔の大河ならば嘲笑うだろう。
 独りよがりの想いだという自覚はある。先輩からこんなことを押し付けられたら堪ったものではないだろう。現に(押し付けられたわけでもなかったのだが)「責任を取りたい」と告げた熱く惹かれるあの背中が重くのしかかってくるようで、放り出してしまいそうになったこともあった。
 だからこそ、押し付けるようなことはしたくない。



 笑いがおさまった後、挑むような目つきで渋谷は言った。はっきりと。
「見ててくださいよ! 今度こそ『打倒海堂』成し遂げてみせますから!」

 その言葉を聞いた瞬間、三人は目を大きく見開いたかと思うと、くっくっと笑い声を押さえながら顔を見合わせた。
 「なんなんすか! 俺、何も変なこと言ってないっしょ!」と抗議する渋谷に、「いや、別に」と口をそろえて三人は答える。


 吾郎達先輩が掲げた「打倒海堂」という目標を引き継がんとしたように、渋谷達後輩も引き継いでいくのだろう。「渋谷達だけの聖秀野球部」として。
 「茂野吾郎率いる聖秀野球部」はもはや存在しないように、「清水大河率いる聖秀野球部」も存在することはない。何物にも、何者にも引きずられず邪魔をされることも重荷になることもなく、「こいつらの聖秀野球部」は今ここに在る。

 俺は、俺達はただ置いていくだけだ。
 それでも、独りよがりな想いではないらしい。我らの後に続く者が自ずから掬い上げ、胸に抱いて、後の代へと受け継がれていく。
 手放すことを寂しくないとは言えないが、抱いたこの想いや願いは――夢は、塵となって消えていくことはない。
 ――こいつらに、託してもいいよな。
 重荷となるなら、この想いは託さない。けれども、俺達はあの夏に向けてそれほどの関係を築き、チームを作ることができたから。こいつらなら、先代から続く「打倒海堂」という目標を掲げて夢を駆け抜けることができるだろう。
 先輩としてのひいき目では断じてない。
 胸の内にあるのは、決して揺らぐことのない確信だ。



 それならば、俺が伝えられるのはこれだけだ。
 大河は一年のあの夏の日に言われた言葉を、新しい主将に対して言った。
「気楽にやれよ、新キャプテン」
 ――お前らは、お前らだけのチームを作っていけばいいんだよ。
 あの日吾郎から言われた言葉が、大河の耳奥でこだました。










【補足】

 どうでもいいことですが、こちら作成時の脳内BGMは天野月子さんの「翡翠」でした。ずばり「卒業」がテーマです。二つバージョンがありますが、「A MOOM CHILD IN THE SKY」に収録されているピアノアレンジバージョンの方です。楽曲単体としても本当におすすめなのでぜひに。