迷惑メールの多さに辟易しながら、綾音は必要なものとそうでないもののメールを振り分けていた。「そうでないもの」をごみ箱へ写し、[完全削除]のボタンを押せば、大量にあったメールの数々は跡形もなく消えていく。
もうちょっと早く整理すればよかったなあ、などと思っても後の祭り。データの膨大さにより内部容量がオーバーしてしまい、携帯電話を使い始めた初期のメールは残念ながら既に無くなっている。保護することはおろかバックアップもとっていなかったので、過去のものを再び目にすることは不可能だろう。
初めて携帯を使って文字を打ち、何気ない内容をドキドキしながら家族や友達に送ったこと。受信したメールをワクワクしながら開き、綴られた文章を何度も何度も読み返したこと。そんな新鮮さや思い出を示すものが跡形もなく消えてしまった。
ごめんね、昔の私。
いくら遠くなってしまった過去であろうと、大切にしていた当時の自分の想いを踏みにじってしまったようで。つきんとした痛みを覚え、綾音は思わず胸を押さえた。
けれどもそれ以上に、昔の自分にとって大事だったであろうメールがどのようなものだったのか、今の自分には思い出せない悲しみの方が大きかった。
過去に対して、どうしてこれほど感傷的な気持ちになるのか。原因は明らかだ。
綾音は机上に置かれた手帳を開き、挟めてあった紙切れを取り出した。先日、探し物をしていた際に見つけた付箋。何かの拍子に偶然入り込んでしまったのであろう、数年前使っていた何冊かのノートとともに押し込まれ、引き出しの奥の奥にそれは眠っていた。これがいつのものであるか定かではないが、ある程度年月が経過していることは確かだろう。保存状態はお世辞にもよいとは言えず、しわしわのよれよれ、所々染みのようなものまである。本来ならば即ごみ箱行きになるはずだが、そこに書かれていた一文を見て、綾音は処分する手を止めてしまったのだった。
『確認済 サンキュー』
付箋に書かれたその筆跡は、久しく合い見えていない清水大河のものだ。
清水大河――綾音の高校時代のクラスメイトであり、部活仲間である――は、綾音よりも一足早く社会人となり、二年前から美容師として働いている。クラスメイトとして、またキャプテンとマネージャーとして、綾音と大河はそれなりの時を重ね関係を築いてきた。とはいえ、それ以上でもそれ以下でもない繋がりである。加えて部活の引退や高校も卒業してしまえば、それらの頭には「元」という言葉が付き、現在の二人を示す関係はない。そのため、個人的に会うことはおろか連絡をとることもこれまでなかった。
偶然にも二人は三年間同じクラスだったので、教科書などの貸し借りによるものではないだろう。となると、
「部活、かな……」
練習メニュー、スコアボード、偵察した対戦校のデータ、練習試合や公式戦の選手の記録……、指折りながら可能性を一つずつ挙げていく。大方、キャプテンとしてチェックしてもらいたい箇所があって収集したデータを渡した後、確認を終えた大河が表紙に貼ったのだろう。ともすれば素っ気ないと解釈してしまいそうなほど簡潔で、けれども確かな感謝のこもった温かな言葉を添えて。
付箋に書かれた一文から察するに、データの収集や保管に関するような重要性を孕んだものではないことは明白だった。データ類は全て引退を期に部室へ置いてきたはずなので、整理する段階で付箋だけが残され、巡り巡って引き出しへ紛れてしまったのかもしれない。
まるでつい昨日の出来事のように、数々の思い出が鮮明に浮かぶ。それに呑まれてしまわないよう、綾音はかぶりを振った。止まることを知らず流れゆく日常の中、脈絡もなくただ無性に、聖秀野球部の一員だったあの頃に飛びたくなることがある。
そしてそれと同様に、決まって胸を焦がし、立ち止まらせてくれるものもあった。
職場でなにかと使用する機会が多い、橙色の付箋。
ファッション雑誌のとある特集に取り上げられていた、近頃話題の美容院の記事。
毎年夏にかけて行われる、甲子園の地方戦に関するニュース。
日々に追われながら、それでもふとした時思い出したかのように大河の面影を見ることがあった。その度に「最近会えてないからかな」と首を傾げていたけれど、その回数がちりちりと焦がれるような胸の痛みとともに段々と増えていることを綾音は自覚していた。
元々シャーペンで書かれていたらしく、その上長い間雑に保管されていたからだろうか。付箋に書かれた文字は全体的に擦れ、薄くなっている。
部員達と汗まみれになりながらグラウンドに足を踏み入れたこと。試合の度に喉が張り裂けるほど声を上げて応援したこと。キャプテンである大河と頭を寄せ合って練習メニューを調整したこと。文字を目にしていたはずが、視界はいつの間にかあの頃の映像でいっぱいに広がり、一瞬のうちに朧げになる。
――消えないで。
堪らず、霞みゆくあの日々を掴むように書かれた文字をなぞる。かさ、と皴が寄った付箋にはっと我に返り、綾音は指先を引っ込めた。黒鉛がほんの微かに指の腹へ移り、文字がさらに掠れてしまった。
このまま風化し、最後には消えてしまうのだろうか。書かれた言葉も、それに乗せられた想いをも。携帯電話を初めて手にした際受け取ったメールのように。やり取りをしていた時に感じていた宝石のような気持ちのように。
大事にしていた過去の、思いがけない忘れ物をこうして見つけることができたのに、また置き去りにするのか。それがどれほど大切なものかを分かっていながら、蔑ろにするのか。「このままでいいの?」と胸奥で叫ぶ声を無視して。
同じクラスで同じ部活、日常的に近しい場所にいたこともあって二人のやりとりは口頭が殆どであった。とはいえ色っぽい何かではなく至って事務的なものではあったものの、付箋を用いたやり取りは一度や二度ではなかった。
そしてそれらは、別途確認が必要であったり、特別保管しておかねばならなかったりするものでなければ、目を通した後は決まって処分していた。
――でも今は、付箋一つ捨てられない。たとえその文章がどのような経緯があって書かれたものなのか分からなくても。――逆にその経緯を思い出し、文章の意味を理解したとしても。
繋がりを消したくないから。
我ながら変だと思う。
今の自分に贈られたものではないことは分かりきっているのに。
手紙と言えるのかもわからないこれが、清水くんから贈られた言葉の数々が。時を越えて、こんなにも私をかき乱す。
けれどそれすらも、消えてしまうのかもしれない。
あの頃の日々も、「どう思っていたのか」も、いずれ思い出せなくなってしまうかもしれない。何も感じなくなってしまうかもしれない。
忘れ去られ、初めからそのような事実はなかったのだと言わんばかりに。
それは、嫌だ。
そう思うのは、聖秀野球部での日々を忘れたくないからか。部活を引退し高校を卒業した時から、二人の道は分かたれてしまっていると理解していながら、それでもなお、「思い出を共有する」という形で今一度同じものを見たいからか。
今感じている「寂しさ」や「悲しさ」を忘れてしまうことを恐れているからか。
――彼からの言葉に、「清水大河」という存在に、別の何かを見出だしているからか。
もしくは、それら全てか。
いずれにしても、これ以上色褪せてしまうことを……遠くなって消えてしまうことを、よしとしたくはなかった。
*
聖秀野球部OBOGの飲み会は、不定期ながらも細々と行われている。かくいう綾音も参加する頻度こそ多くはないが、社会人になってからも都合がつけば顔を出し、かつて共に戦った部員達と近況を言い合ったり、仕事を中心とした愚痴をこぼし合ったりした。
「来るかなあ」
なにかと忙しいのか、最近めっきり顔を出さなくなっている大河に想いを馳せる。卒業後してからちょくちょく参加してはいたものの、その回数は段々と下がり、綾音が本格的に就職活動を始める頃には姿を見せることは殆どなくなっていた。
もし、清水くんが飲み会に参加するのなら、この付箋を持っていってみようか。綾音は手帳の日付に丸をつけた部分を目にしながら、僅かに付箋を持つ指に力を込めた。
少なくとも話のネタくらいにはなるかもしれない。清水くんのことだからきっと「覚えてない」と言うに決まっているけれど。来なかった時は手帳を開かず、付箋は再び引き出しに仕舞おう。今度はぞんざいに片づけず、クリアファイルにでも挟めて。
そこまで考えて、自嘲で口元を歪ませる。来るかどうかも分からないのに。大河が参加するまで、それを続けることも視野に入れている辺り、滑稽以外何物でもないだろう。
それでも「繋ぎ止めたい」という思いは、遠くなる過去や薄れゆく頼りない記憶と比べると、唯一自信をもって断言できるものだった。
開いている紙面に、粘着部を押し付けるようになぞって手帳を閉じる。
塵や埃が付着し、本来の粘着力が殆ど失われた付箋。他人から見れば、取るに足りないただのごみでしかない。
それでも今の綾音にとってそれは、「一番失いたくないもの」だ。
今度こそ無くさない。
消えてしまうことに抗うのなら。「繋ぎ止めたい」と思っているのなら、行動しなきゃ。
ト・パレルトン
パレット壱20【ト・パレルトン[ギリシャ語:過去](手紙・忘れ物・飛ぶ)】