背中についた爪の痕が、痛いのか熱いのかわからない。
「ご、ごめんね……私ったらつい……」
「いいって別に」
いつの間にやら外はバケツをひっくり返したかのようなザーザー降りとなっていたようで、半ば雨音に気を取られながら被せるようにして答えた。
毛布を口元まで隠してあたふたと返す彼女に「相変わらずだなァ」と苦笑する。幾度となくこうして身体を重ねているのだから少しは慣れてもいいものだと思うけれど、こんなことがある度、彼女は申し訳なさと恥ずかしさで縮こまっていた。
まあそれは俺も一緒か。余裕なくがっついて、泣かせて、痛い思いや怖い思いをさせたこともきっとあったはずだから。「どこかの鈍感奥手カップルよりかはそつなくこなせるはずだ」とか、「もっと優しくスマートにできるんじゃないか」とか思ってたこともあったけれど、それはただの自意識過剰にすぎなかったらしい。
もうちょっとマシだと思ってたんだけどな。
彼女を前にすると誤魔化しが効かなくて調子が狂ってしまうのは、何も付き合いだしてからなんかじゃない。それこそ――
「どうしたの?」
「いや? っていうか俺も、無理、させたんだろうし。ごめん」
「ちがっ! そんなこと、」
項垂れていた先程とはうって変わり、ガバッと体を起こして声を荒げた。
が、夜半もとうに過ぎた頃だと思い出したのか、声が大きかったと、途端に口を手で覆う。思いの外響いた声が、あっという間に夜の闇へと吸い込まれた。
ついと目を向けると、何か言わんと口をもごもご動かしていた彼女は、やがて「……なんでもない」とそっぽを向いてしまった。
でもまあ、
「悪くないなって」
「えっ、何が?」
「こういうのも」
悪くない、なんてそんなもんじゃない。本当はとてつもなく……嬉しいのだ。
いいのか、俺なんかで。繰り返し喉元にせり上がっては、その度に口をつぐんでしまう。
常にそういう訳ではない。それこそ仕事中とか、彼女のことなど全く頭にないことだってある。けれども何気ない日々の中、ふとした瞬間彼女への想いを、俺に向ける彼女からの想いを思い出す。それは彼女との関わりの中で、いや、直接関わりがなくとも彼女を連想する出来事があった中で。
内からじんわりと沸き上がることもあれば、カッと体が熱くなるほど、体の芯から燃え上がってしまいそうなほど、
――嬉しい。
とはいえ、そんなことを面と向かって言うなんて恥ずかしくてとてもできやしない。しかしそれがよくなかったみたいで、相手は予想斜め上の受け取り方をしたようだった。
しばしあんぐりと口を開けていたかと思えば、ジト目で見つめられる。
「な、なに」
「大河くんって……痛いのが好きなの?」
「は?」
なんでそうなるんだ。
「だ、だって……引っ掛かれるの悪くないんでしょ?」
「……」
はあ……と頭を抱えると、「じゃあどういうことなのよ……?」と横で少し怒ったような戸惑ったような表情を浮かべた。
こんなところで天然を発揮しなくてもいいだろ!
そうはいっても、言葉足らずだからこそとんでもない誤解を招いたのは百も承知だ。
横目で見ると今も尚百面相を浮かべていて。ちょっとしたことでも真面目に取り合っては一喜一憂するいつも通りの彼女に、恥ずかしさから所々端折って伝えたことがバカらしくなってきた。
まあ、伝わんなかったら意味ねえもんな。
彼女といると調子が狂う。それは高校時代から今も変わらない。けれど、それを受け入れられずイライラしていた高校の頃とは違い、今は「それもいいか」と受け入れている自分がいるのも事実だ。当時の俺が彼女の威力にすっかり感化された今の俺を目の当たりにしたら、「クッソだせえ! なんでこいつに!」と盛大に舌打ちするだろう。それさえも「まあいいか」になるのだから、人間変わるものである。
彼女に誤解されたままになるとか、このままじゃ格好がつかないとか色々あるけれど。それ以上に願望が勝ってしまったのだ。
伝えたい、この喜びを。
「……そうやって、ワケわかんなくなって引っ掻いちまうくらい求めてくれることが」
恥ずかしさも何もかもとっぱらって夢中になって求められたことが、たまらなく。
「すげー嬉しくて、さ」
「えっ?」
何のことか分からず惚けていた彼女の顔が、みるみる赤く染まっていく。つられて頬に熱が集まるのが自分でもわかった。らしくないことを言った自覚があるだけに、居たたまれなさは底知れない。かといって冗談だと、からかっただけだと取り繕うことはしたくなくて、静かに反応を待った。
暫くは口をパクパクさせたり視線をうろつかせていた彼女は、やがて観念したかのように胸元に額を押し付けた。
「…………うう~」
ずるいよ。それは、私の方なのに。窓を激しく叩く雨音にかき消されるほど小さく小さく呟かれたその声に、耳を疑った。
「え」
今、なんて。
聞き間違いではないかと声を掛けようとすれば、追求を逃れるかのように顔を上げた。
「私こそあなたからいっぱい、本当にいっぱい愛してもらって、とっても幸せだよ」
たどたどしくも手を掴んで頬に寄せ、涙を湛えながらそう言うもんだから。
ずるいのはどっちだ。反則だろ、そんなん。
頬なんてもんじゃない。先ほどとは比べ物にならないほど全身が熱く、バクバクと沸騰した血液が行き渡っていくような気さえした。
手を伸ばし頬に指を這わすと彼女は顔をさらに近づけ、手のひら全体にすり寄わせる。頬に触れた手の上に彼女は同じものを重ねると、熱を帯びた表情を、ふわりと崩した。
ああ、ほんと。
同じなんだな。
沸き上がったこの想いは、どうすれば伝えられるだろう。
先程伝えたものよりはるかに大きな熱量を、どうすれば。
導かれるようにして彼女をきつくかき抱き、鼻と鼻を触れ合わせながら温もりを孕んだそれに自身を重ね合わせた。
*
窓を叩く激しい音もいつしか収まり、さぁ……という風と共に細やかな雨粒が降り注いでいた。
「いや~~それにしても情熱的でしたね~~~~」
「なっ……! もう!!」
ばっと顔を上げ、彼女はその場にあった枕を掴んで俺の顔に押し付けた。潤んだ瞳や頬の赤みは相変わらずではあったけれど、こんなやり取りが出来るくらいには復活したらしい。あまりに分かりやすすぎて、思わずプッと吹き出した。
「暴れるなっつーの。落ちるぞ」
「暴れてなんかいません!」
「へいへい」
ベッドの上でバタバタと動きながら頬を膨らませていたが、一息吐いて再び側に潜り込んで身を寄せた。
そのまましばらく布団に顔を埋めていたかと思うと、背中にそっと手を回し、彼女は服の上から先程の痕を柔らかく撫で始めた。
「別に大丈夫だって」
「いいの、私がこうしたいの」
痛い? と気遣わしげに問われたが、「全然」と答える以外の言葉を持ち合わせていない。あれからどれくらいの時間が経ったと思ってるのか。確かに違和感はあるものの、熱や痛みはだいぶ引いてしまっている。
「よかった」とほっとしたように笑みを浮かべて、それでもなおその手は止めることなく撫で続けた。
「手当て」とはよく言ったものだ。手で触れられても物理的な痛みは消えないはずなのに、まるでそれが吸い取られていくかのように感じるのはなぜだろう。じんわりと温かく感じるのはどうしてだろう。
聖秀野球部にいた頃、マネージャー故に彼女が手当てをする機会は幾度もあった。その相手は他の部員だったときもあるし、俺自身だったときもある。
思い返してみても、彼女の手当ては怪我などに対する医療的な処置を施すだけではなく、「心配」だとか「大丈夫」だとか、そういう気遣いや励ましといった温かさも同時に降り注がれていた。
今はもう聖秀野球部の一員でもなければ「マネージャー」でもない。しかし、どれだけ時が経ちその役割を担う必要がなくなっても、こんなところは全く変わらない。
今もまた、彼女に温められている。
それが嬉しくて、けれどただもらうだけなのは不満で。
「ふわっ」というびっくりしたような声に構わず抱き寄せた俺は、同じように、同じタイミングて、彼女の頭を撫で始めた。
「なあに?」
「いや? なんとなく。なんつーか、お返し?」
「どういうこと」
「何でもねーって。俺がこうしたいだけだから気にしなくていいんだよ」
見返りなんていらない。そんなものを求めて、こうしてる訳じゃない。
本当は、お前から与えられるものならなんだっていいんだ。
そう思ってしまうほど、俺にとっては必要不可欠な存在なんだ。
けれど「与えられる」ばかりなのは嫌なんだ。
お前からもらうあたたかさを、同じくらい渡したい。
それを繰り返しながら、これからも変わらず側にいられたらどんなにいいだろう。
これは紛れもない本心。
とはいえ、今まさにそっくりそのまま伝えられるほど素直でできた人間でもない。
「俺なんかでいいのか」。その思いは相も変わらず蔓延っている。
けれどもいつか、ちゃんと伝えたい。
そしてそれが許され、受け入れられ、彼女もまた同じように望んでくれたなら。
聞こえるのは、互いの息づかいと、鼓動と、布越しに撫でる音だけ。手の感触や彼女の穏やかで温かな吐息、抱きしめ合うことで感じる体温。心地よいそれらに一切抵抗することなく、全身を委ねる。
叶うのならどうか眠りにつくまで、いや、夢の中までも。彼女もまた温かさと心地よさに包まれていてほしい。だんだんと意識が遠退き、微睡みの中へと誘われながらそう願った。
外は相変わらずの雨模様だけれど、二人横たわるベッドは凪いでいて、どこまでも静かで優しい夜だった。
ギブアンドギブ
(大河さんと綾音さん)
素直なたいがさんと、それに引っ張られるような形で同じように素直に伝えるあやねさん
当初もっとドライな展開になるはずだったのですが、彼が私の予想以上に彼女を大切に想っていたようでこうなりました
大人になった清水大河ほんと反則だと思います……