キスの効用
「キスにはモルヒネの10倍もの鎮痛効果がある」とはいうけれど、物理的な距離に対するこの心細さや寂しさは果たして薄れるのだろうか。
進学に伴って私は一人暮らしを始め、さばけなかった家事や一人きりの寂しさにも慣れてきた。けれど、彼と離れて暮らす日常には、慣れることができないでいる。
専門学校に在学する彼と、四年制の大学に在学する私。高校まで同じ場所で過ごした私たちがそれぞれの未来や目標に向かって別々の道へと歩み出したことは何の後悔もしていない。でも、必然的に会える時間は限られてしまうから。いつも隣にいた彼がそばにいないというそのことが、私の心にぽっかりと穴を作ったみたいだ。
「時間大丈夫? もうそろそろ出なきゃだよね」
「まーね。あ~だりい」
清水くんはソファから立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
その背中をしばらく見つめていたものの、やがて私は目をそらした。
今生の別れではない。携帯電話という便利なものもあって、いつでも連絡を取り合うことができる。なのに。
あのころの私は、どうしてあんな簡単に分かたれた道を進むことができたのだろう。
「じゃあね」「またな」という別れの挨拶なんて高校生の出会ったときから交わしているというのに、その言葉を口にしようとするとなぜこんなにも離れがたく感じてしまうのだろう。
次の日にはいやでも会えると無意識のうちにわかりきっていたから?だとしたら、なんと贅沢なことだろう。
俯く私の頭上から降ってきたのは、彼の声だった。
「なんて顔してんの」
振り返って私を見つめる目はあまりにも柔らかい。私はそんなに顔に出ていただろうか。
「ちょっと、寂しいなーなんて思っただけ。あはは」
本当は『ちょっと』どころではない。けれど、それを伝えることは彼の負担になってしまうだろう。それは避けたかった。
しかし私の思いとは逆に、彼は先程まで過ごしていたソファへと踵を返した。
「やーめた。今日泊まるわ」
前泊まった時の分があったろ、と彼は手にした荷物を床に置く。
「えっ!? 明日学校でしょ!?」
「んなもん始発で出りゃ間に合う」
「でも荷物は持ってきてないんじゃ……」
「じゃあサボる」
「何言って」
「なんだよ。そんなに俺を追い出したいわけ?」
「違うよ!」
そんなわけないのに。もっと隣にいたいし、いてほしいのに。
「……私が変なこと言ったからでしょ。ごめん」
「ちげーよ!」
ああもうなんでわかんねーかな、と頭をがしがしと掻きながら声を荒げて言った。
「俺が!ここにいたいんだっつーの!」
そっか……そっか。
「あははっ」
「なんだよ……」
笑われたことが恥ずかしいのか、馬鹿にされているような気持ちになっているのか、彼は黙ってそっぽを向いてしまった。けれど、そんな彼に構うことなく、私は笑った。
私だけじゃない、清水くんも同じなんだ。
ひとしきり笑った後、私は真正面から彼を見据えて言った。
「ありがとう。でもやっぱり、ちゃんと帰らなきゃ。美容師になるんでしょ? 一緒にいたいけど、私は早く清水くんにカットしてほしいな」
「……ちぇっ」
相変わらず真面目だよなあ…と視線を落としてつぶやきつつ、バッグを片手に再び玄関へと足を運ぶ彼の前に先回りする。
「待って、」
私は胸元の袖をつんっと引っ張り、目を閉じて彼に唇を寄せた。
唇を離すと彼はびっくりしたように私を見つめていて、私は顔をほころばせた。寂しさや心細さが消えるわけではないけれど、次に会うときまでこのぬくもりで我慢しよう。
「またね」