ゆすらうめがみのるとき
その言葉を告げると、彼女は口元に弧を描いた。
言葉なんて必要なかったかもしれないな、と言ってしまった後にそのような考えがよぎって俺は頭を掻いた。それでも、彼女を真正面から見つめながら気持ちを言葉に乗せたかったのだ。
これほどたおやかに微笑む彼女を俺は知らなかった。あの時、気まぐれで聖秀の試合を見に行き再び出会わなければ一生目の当たりにすることはなかっただろう。
俺も彼女も、高校生の頃とはもう違う。そんな当たり前のことを頭の隅で考えながら彼女の言葉を待つ。
あの頃の彼女はもういない。そのことを寂しく思わないと言えば嘘になるが、戻れるなら過去に遡ってまで一目会いたいなどと思うことはない。同じく当時とはかけ離れてしまった俺自身にも言えることだから、という思いのほかに、結局は「彼女は彼女だから」という根拠のない、しかし確固たる自信があるからだった。
俺が「清水大河」であることは聖秀時代から変わりがないように、彼女もまた「鈴木綾音」であることには変わりがないのだから。
たった3年間という、生きてきた時間の中でも本当に短かった聖秀での日々。
しかしあの頃の日々があったから、あの時築いた関係が本当にかけがえのないものだったから、降り積もった想いが心の底に眠り続けていたから。俺と彼女はこうして再び隣に並ぶことができている。
「こんなおばさんでもいいの?」
「それを言ったら俺だってじいさんだよ」
「う……じいさんなんて言わないで。貴方がそう言うなら私だっておばさんじゃなくて『おばあさん』って言わなくちゃいけなくなるわ」
歳はとりたくないものね。と言いつつも、歳を重ねることに対して悲観的に思っているわけではない。口元に手をあてながら笑みを浮かべる私に、彼もまた静かに微笑む。
丸くなった瞳を向けながら、彼は私の手に触れた。無骨な手だ。けれどもその手がただただ愛おしい。
「思い切りぶつかり合うのも若さの特権ですよ」と、もう名前もお顔も記憶の彼方へと消え去ってしまった先生が仰った言葉を、突然ふと思い出した。あの頃のような関係のまま、日々を過ごしていくことは決してできない。もう私達は、身を裂くほど傷つけあうことも、声を荒げて罵りあうことも、感情に揺さぶられるままに身体を突き動かすこともない。不変と呼ばれるものなどこの世に存在しないことは、私も彼も知っている。
あの頃のような二人にはもう、なれない。
その代わり、あの頃には決して分からなかったことが分かるようになって、湧き上がるはずのなかった想いを生みだすことができた。
本当は言葉なんていらなかった。彼と私、交わさずとも抱くものは同じだということはお互いにわかっていたから。
それでもなお、言葉と瞳と熱とを総動員させて私に伝えてくれたことが、年甲斐もなく声を上げて泣いてしまいたいほどに心を震わせてしまう。
「紳士ねぇ」
「誰が?」
「今の貴方以外にいないでしょう」
「まるで以前の俺は紳士じゃなかったような言い方だな。まあそうなんだが」
「自覚はあるのね」
「そりゃあ、あの頃は相当なガキだったし」
当時のことを思い出しているのか明後日の方向を向いて彼は苦笑した。いろんなことがあったものね、と同じように目まぐるしく輝いていたあの頃に想いを馳せながら私は相槌をうつ。
「だけど、あの頃の貴方も今の貴方も、私にとっては本当にかけがえのないただ一人のひとなのよ」
これまで別の道を歩んだ。様々な経験をし、様々な出会いと別れを重ねたことで、小さな世界で過ごしていた幼い頃の自分とは比べものにならないほど変わってしまった。聖秀での日々を、築いた関係を、あの頃の自分をどうしようもなく追い求めてしまうことも正直、ある。これまでの日々において「変わらずにいられたら」と何度願ったことだろう。
けれど、と重ね合わせた手のぬくもりを感じながら思う。
変わらないものだってあるから。失ったもの、失いゆくものもあるけれど、これから生まれゆくものとここにずっとあり続けるものを抱きしめながら歩いて行こう。
過去と現在と未来をただ見つめて。
何物にも代えがたい有限の時を、二人で。
【補足】
タイトルは恐れ多くも吉行あぐりさんの同名小説から拝借しました。
ゆすらうめ(山桜桃・梅桃)は3~4月頃に白い花を咲かせ、6月頃に赤い実をつける花です。花言葉は「郷愁」「輝き」と言われています。