ぼくとワルツを




 隣を歩くマネージャーの足が止まったのでどうしたのかと振り返ると、彼女はショーウィンドウをぼんやりと見つめていた。
「マネージャー?」
 近づいて話しかけるものの、聞こえていないのか彼女は一向に反応を示さない。ガラスの先にはサンダルやミュールが並んでおり、視線をたどればその中である一足の商品に注がれている。
「何、それ欲しいの?」
「ううん、可愛いなって思って」
 その一足に視線を定めたまま、夢心地で呟く彼女。しかし次の瞬間、夢から覚めたかのようにぱっと振り返り、いつも通りの笑顔を俺に向けて「行こっか」と前を歩き始めた。

 アキレス腱のあたりにふんわりとしたリボンがあしらわれており、シンプルなデザインでありながら目を引くような華やかさがそれにはあった。値段は……まあそれなりだ。少なくとも、衝動買いをすることのない彼女は絶対に買わないだろう。
 それに、と彼女の履く靴とショーウィンドウに並ぶ靴とを横目で見比べる。現在彼女が履く靴はローヒールのパンプスだが、これほど高さのある靴を履けば、俺と彼女の身長差は逆転してしまうに違いない。
 初めて出会った高校一年生の頃はほとんど変わらなかった(本当にちょっとだけ彼女の方が高かった。ほんのちょこっとだけだ)身長。しかし「あいつと同じ身長なんて笑えねえ」と毎晩風呂上りに牛乳を飲みまくったあの努力は決して無駄ではなかったようで、当時と比べるとぐんと引き離すことができた。最後の夏の大会後、振り返って見つめた彼女に「こいつこんなに小さかったっけ」と夕日が射す中で驚きとほんの少しの何とも言えぬ寂しさを抱いたことを、彼女が知ることはきっとないだろう。

「清水くん?」
 先程とは逆に振り返って声をかける彼女に応えるように、止めていた足を動かし始めた。ウィンドウに飾られたあの一足を一瞥した瞬間、そのサンダルを履いて嬉しそうに楽しそうに笑う彼女が脳裏に浮かび、焼き付いて離れなかった。


「寄りたいところあんだけど、ちょっと付き合ってくんない?」
 うだるような暑さと時間があっという間に過ぎ去り、柔らかな夕焼けの陽に包まれた彼女を見やって俺は言った。
「う、うん……? どこに行くの?」
「すぐそこ」
 きょとんとする彼女ににやっとしながら、あの店へ向かった。先程彼女が目を奪われていたサンダルのある場所へ。

「……ここ?」
 どうして、と当惑しながら言葉をこぼす彼女を無視して足を店に踏み入れ、「すみません。そちらに飾ってあるサンダル、見せていただいてもいいですか」と声をかける。少々お待ちください、と店員がにこやかに告げ、例の一足を丁寧に持ってきた。
 いいよ、と渋る彼女をなだめすかしてサンダルに足を通させ、腰かけている彼女を立ち上がらせる。
「やっぱりマネージャーの方が高いか」
 予想通り、先程までは追い抜いていた身長が彼女によって追い越されていた。まあ、分かりきっていたことではあったけど、と苦笑する。
 まるであの時みたいだ。一年の春、マネージャー志望として屋上に訪れた彼女と対峙したあの日のように、自分よりもほんの少し高い彼女が目の前にいる。
 あの日と違うのは、当時のようなスパイクや上履きではなく俺はスニーカー、彼女はヒールの高いサンダルを履いていること。桜の花が咲き誇る春ではなく厳しい残暑が続く夏であること。聖秀野球部の練習場所である屋上の入り口ではなくあるショッピングモールの一角のシューズショップであること。そして、同じ部活の仲間同士ということに加えて、彼氏彼女の関係であること。

 違う点は数あれど、時と場所と関係が少しずつ形を変えた今も、相手自身は変わることなく目の前に在り続ける。
 
「ね、ねえやっぱりいいよ」
「なんで」
「だって……」
 口をパクパクさせながら少しだけ目尻と目線を下げて俺の頭頂と足先を交互に見つめる彼女。その行動の意味を察して一瞬言葉が詰まった。
「何、俺はチビだって言いたいわけ。まあ確かに仰る通りですけど」
「そういうわけじゃ!」
 彼女が俺を見下ろすということはつまり、俺は彼女を見上げるということだ。この事実に何とも思ってない、とまでは言えないけれど。
 それでも、両手をぶんぶん振って焦ったように否定する彼女をケラケラと笑いながら、
「別に。今はそれ履いてっからアンタの方が高いだけっしょ。実際は俺の方が高いからいいんだよ」
「そういう問題?」
「そーゆー問題」
「でも」
「気になってたんだろ? ……似合ってんじゃん、それ。履きなよ」
 顔に熱が集まるのを気づかれないようにくるりと背を向けて言い、顔も見ずに財布を取り出して店員の方へ向かった。勘定に入る俺に気づいた彼女は慌てて声を上げる。
「じゃっじゃあせめてお金!」
「いいからもらわれとけって」
 彼女との身長差は10㎝とないことは覆しようのない事実だ。やっとの思いで抜いた身長をいとも簡単に逆転され、男としてはかなり複雑な心境であることは正直否めない。しかしまあ「履くなよ」なんてことは口が裂けても言えないし、エゴだということも重々承知しているのだ。

 それよりも。
 支払いを行いつつちらりと横目で見ると、彼女は強引に購入されることへの戸惑いと「履いてもいいのか」というためらいをにじませていた。しかし、今足を通しているサンダルに視線を落としその場でくるっと一回転したかと思うと、表情がみるみる明るくなって輝いていく。
 それよりも、彼女がサンダルを履いて嬉しそうに笑う彼女を思い浮かべてしまった瞬間から、
 ――あの顔が見たかったんだ。
 俺も大概、姉貴達を笑えねえよな。
 身長差とか値段とか、そんなものはどうでもいい。そう思えてしまうほどには、あいつのことに関してもう「手遅れ」なのだろう。


「わあっ! っとと」
 店から出て数歩進んだところで、彼女は前につんのめり寸でのところで踏みとどまった。ほっとしたように息をついた後一部始終を見ていた俺を恐る恐る見上げる。その様子にたまらずプッと噴き出した。
「だっせえ」
「しょうがないでしょ! いつもそんなにかかとの高い靴なんて履かないもん」
 その頬には、夕日に照らされただけではない赤みがさしていた。彼女のそれに、ついつい口が滑る。
「今度こけたら他人のフリすっかな~」
「ひっどーい! その時は助けてくれてもいいじゃない!」
「みっともなく盛大にこけたヤツの連れだって思われたくねーもん」
 くくっと笑い続ける俺に、彼女は「そんな言い方しなくたっていいでしょ」と唇を尖らせて足元に視線を落とし俯いた。
 その様子に「はあ~」とため息をついて、
「しゃーねーな。ほら」
 俺とは違う、色白で小さく柔らかい彼女の手をつかんで引っ張った。目を見開いて何かを言いかけようとする彼女に先越されないよう、言い放つ。
「また転んで残念な格好にならねーように引いといてやるから」
 
 
「もう大丈夫だってば」
「どうだか」
 少しだけ顔を赤らめて恥ずかしそうに俺を見下げつつも、なお無理やりにでも振りほどこうとはしない彼女に自然と口元が緩む。
 つまずいたりしないようにいつも以上に歩幅を狭めてゆっくりと歩く俺達を、後ろから追い付いてきた歩行者が次々と追い越していく。中には怪訝そうに振り返る人もいたが、知ったことではない。
 つないだ手から伝わる熱とどちらのものか分からない汗が、俺達の間を吹き抜ける生ぬるい風によって冷やされていく。それを心地よく感じながら、離れることなく歩き続けた。


 徐々に広がる身長差も、いるべき場所も、変わる関係も。
 「あの頃とは違う」という事実に、これからどうしようもなく心乱されることがあるかもしれない。それでも、つないでいるこの手を離したくはないから。

 彼女の履くサンダルのリボンが、俺達のスピードに合わせてふわりと揺れた。




【補足】

 

 一部のぎちゃん(@ka___bnog_1)のこちらのツイートを参考にさせていただきました!ありがとうございます!
 この話では大河くんが少し余裕で綾音ちゃんは丸め込まれている感じですが、きっと綾音ちゃんも彼より一枚上手でたじたじになっていることがあるんだろうなと思います。
 ちなみにこの二人、最後の夏の引退試合後に告白してお付き合いしているという裏設定がありますがどの時期のお付き合い大綾でもおいしいですね。
 話中で出てくるサンダルはこちらを参考にさせていただきました。