これまでもこれからも




「そういえば、お二人っていつなんですか?」
 開店当初からご贔屓いただいている常連客の女性に尋ねられ、俺ははさみを手にしたままはたと固まってしまった。
「……何がですっけ?」
「だから! 結婚記念日!」
 話聞いてなかったでしょ!と女性は鏡越しに唇を尖らせるが、その言葉に対して返答する余裕は今の俺にはない。何せ、いつだったかを思い出すために頭の中で一生懸命カレンダーをめくり続けていたのだから。

「ええ~っと」
「まさか……覚えてないなんてはず、ないですよね?」
「いやっ、覚えてる覚えてる、覚えてますって」
 なんとか日付を確定させることができたものの、俺を見つめる女性の目は冷たい。聞かれるまで日付を忘れていたことはおろか、「結婚記念日」というものが存在していることすら思い出すことがなかったことはどうやらお見通しのようだ。
 「で、いつなんですか?」と促されて渋々日付を答えると、案の定「はあ?」と素っ頓狂な声が返ってきた。
「もう過ぎてるじゃない」
「いやまあ、ははは」
「笑い事じゃないわっ!」
 眉を吊り上げる女性から明後日の方向へと視線を逸らし、俺は頬を掻いた。
「奥さんからは何も言われなかったんですか?」
 店内の奥で他の客に対してマッサージを施す彼女に聞こえることがないよう、先程とは打って変わって女性は声を潜めた。そんなに隠密にしなくても、と苦笑いを浮かべながら手にするはさみをトレーに置く。
「別に。あっちも何も言ってこなかったし……だからまあ、いいかなって」
 そう、思い返してみても彼女から記念日に関する話題を振られることはなかった気がする。あの日も家事と仕事と育児とに追われ、互いにくたくたの状態で一日を終えたのだろう。記憶が曖昧なのはつまりそういうことで。本当に、いつもと変わらない日常として過ごしたのだ。

「じゃあこれまではどうしてたんですか? 何もしなかったなんてことはないんでしょ?」
「最初のうちは色々してたんですけどね…」
結婚当初はそれこそ食事に行ったり互いに物を送り合ったりしたものだが、店が軌道に乗ったり二人きりの生活でなくなったりしてからはそのような機会も余裕もなく。気がつけばそれらの類をおざなりにしてしまい、思い返せば去年も一昨年もその手の会話すらしていなかった。

 それなら、と女性は先程とは打って変わって明るい表情で鏡越しの俺を見つめた。
「もう過ぎちゃったけど、今日伝えてみたら? 今からでも遅くないですって。別に特別なことしろって訳じゃないんです、それこそ仕事終わりにケーキでも買って一緒に食べてお話しするだけでもいいの。奥さんだって嬉しいと思いますよ。『覚えててくれたんだ』って」
 頑張れ旦那さん。拳を作る女性の言葉を受け、脳裏に彼女の笑顔がぱっと浮かび上がった。「それで喜んでくれりゃいいんですけどね」と言いつつも、彼女のことだ、きっと喜んでくれるだろうと微笑む。先程から止まっていた手を再び動かしつつ、頭では何のケーキを買おうか、どうやって切り出そうかとそればかり考えていた。



「あー……あのさ。夕方ケーキ買ってきたんだけど、よかったら食わない?」
 夜も更けリビングで二人ゆったりと過ごしながら、散々迷った結果このような言葉が口をついて出てきた。「ご飯の支度があるから」と先に帰路についた彼女をこれ幸いと見送り、近くでおいしいと評判のケーキを買ってきたはいいものの、その後どのように伝えればよいか思いつかないまま今に至る。
 昼間はあれほど自信があったのに、今になって尻込みしてしまうのは何故なのだろう。これまで別段何もしてこなかったくせにこの期に及んで何を言うのかと思われるのではないか。そもそも節目であるこの年を自分だけが特別に考えているのだとしたら。そのような考えがよぎっては、脳内で伝えるべき言葉を構築できない状態に陥ってしまう。
 何を緊張する必要があるのかが自分でも分からないまま、しかし既に言葉を発してしまったのだからと意を決して目の前の彼女を見据えゆっくりと唇を動かした。
 知るか、どうにでもなれ。

「遅くなっちまったけど、10年目の記念ってことで」
 何に対する10年目なのか、記念とは何かを気恥ずかしさからあえて外して言ったにも関わらず、彼女には何のことだか瞬時に理解できたようだ。大きく目を見開きしばし沈黙を守っていたが、やがて昼間脳裏に浮かべた彼女と同じ笑顔が咲いた。
「うん、食べる。ありがとう!」


「それで、今日気づいたのね」
「お前は覚えてたのかよ」
「ううん、私も当日は忘れてた。だってあの時期は色々と大変だったじゃない」
 それでなくとも毎日忙しいのに、と言い訳じみた話し方で彼女は二人分のコーヒーを淹れてテーブルに置いた。「こんな時間に食べたら太っちゃうなあ」とこぼしつつもにこにこと笑みを浮かべ、フォークや皿を手際よく用意して真向かいに座る。

「じゃあ思い出したのは?」
「3、4日後くらいかな。でも私も当日に思い出せた訳じゃないし、貴方も何も言わないしで言いづらくて。当日ならともかく、何日も前のことをほじくり返して言うなんて、まるで一人だけ舞い上がってるみたいでしょ? 何を期待してるんだって恥ずかしくなっちゃって。これまでも特別に何かしてきた訳ではないから、まあいいかって流しちゃったのよね」
 でもまさか今になってこんなサプライズがあるとは思ってもみなかったな。
 いただきます、と手を合わせてクリームのついたスポンジを口に運び、顔を綻ばせて彼女は言う。
 結局、考えることは二人とも一緒だったのか。自分も彼女も同じように慌ただしさの中で記念日を頭の隅に追いやり、後に思い出したはいいもののちょっとした自尊心や遠慮が邪魔をして言い出せなかったのだ。

「正直かなり怪しかったけどね。帰ってくるなりキッチンに直行してごそごそしてるし、貴方はずっと落ち着きがないし、一体何事かと思ったもの」
 帰宅後ケーキが痛まないように冷蔵庫へ仕舞う際、「何してるの?」「さあ?」という会話が聞こえてきたが、それほどまで不審に思われていたとは。その後も普段通りに振舞ったつもりだったのだが、欺けなかったようだ。
 こういうの、慣れてねーんだって。
 その時のことを思い出してにやにやと笑う彼女に居心地の悪さを感じ、喉にこびり付くような甘ったるさでどうにかやり過ごそうとケーキを頬張る。

「それにしても、もうそんなに経つんだ……本当にあっという間よね」
「そうだな」
 勤めていた美容院から独立を決意すると同時に、一緒に歩いて行こうと手を取り合って10年。長いようで短かった時間を振り返ると、喜びに溢れることも辛く苦い出来事も何もかもが横たわっていることが分かる。色々なことがあった。本当に。
「大河くん」
 普段は「お父さん」としか呼ばないために紡がれることのないその名前を耳にして、じんわりとした愛おしさが胸一杯に広がっていく。そうだった、言い慣れ聞き慣れた自分の名前も、彼女が呼ぶだけで特別な響きを放ち出すのだ。どうして忘れていたのだろう。
「いつも本当にありがとう。これからもよろしくね」

 ああ、こんな簡単なことでいいんだな。

 「こっちこそ」と言い終わると、どちらからともなく二人でくすくす笑った。
 これまでとこれからの日々に感謝と約束を。そしてその日々を一緒に過ごしていきたい人は目の前の相手以外にいないのだと。言葉少なに伝え合った、ともすればありきたりだと捉えられるだろうそれらに込められた重みと温かさは、きっと俺達だけにしか分からない。
「来年もこうやってケーキ食べようね」
「そのためにはちゃんと思い出さないとな」
 誓いを立てたあの時と時を重ねた今も変わらずにそう思えることと、一方だけでなく互いにそう感じることができるということは、本当はすごいことなのだ。しかし、日々の目まぐるしさとつまらないプライドを理由に考えることを怠ってしまう俺達だから。
 ――だから「記念日」があるんだろうな。
 当日じゃなくてもいい。思い出すまでにどれくらいかかっても構わない。こうして共感することができるのならば、いつだって。ただ、年に一度その機会を利用して原点に立ち返るのも悪くない。