軌跡を描いて  




 がらんどうの教室に自分の席へと歩み寄る足音がやけに響いて聞こえた。
    静かに舞う埃が窓から差し込む光に映し出され、その様が天に昇っていくかのようでどこか幻想的ですら感じられる。その光の粒を浴びるようにして、陽だまりが降り注がれている机にそっと触れ、目を閉じた。
 この感触も、これが最後。つい先程まで使っていたこの机もすぐにまた、違う誰かのものとなってしまう。ここにはもう、何も残らない。
 手に温かさを感じる一方で胸によぎる冷たい風に思わず唇を噛み、目を開けた。

 と、それまで遠かった音がふっと舞い降りた。
 がたがたと机を動かす音。「じゃあね」「また明日」とさよならを交わすクラスメイト達の声。喧騒に混じって聞こえる、教科書類を手早くまとめてカバンに詰め込み椅子から立ち上がった隣の席の、声。
『――先、行くから』
 その声がクリアに耳元へ届き、ぱっと振り向いた。当然、そこには自分以外は誰一人としていはしない。しかし先程の声はまだ耳の中でこだましたまま、離れない。
 声に導かれるようにして教室のドアから飛び出し、階段を駆け上った。


 頬を撫でる風が心地よい。
 校内のどこよりも高い場所に位置するだけあって、心なしか玄関や教室よりも少しだけ風が強いようだ。けれども空から降り注がれる陽の光は変わらず、温かく全身を包み込んでいる。

 友達との他愛ない話を終え、かといってさっさと家に帰る気にもなれずにあてもなく校内をさまよっていたところ、自然と向かった先がこのグラウンドだった。
「……このグラウンドともお別れか」
 栗色の髪がふわりとなびくと同時にぽつりとこぼれた言葉は、紛れもないく寂しさからきたもの。胸元に咲く花にそっと手を伸ばすと、柔らかなリボンの感触が指をかすめた。1、2年前、このリボンをしていたのは先輩達だったのに。あっという間に卒業生となってしまった。
 初めてここを訪れたのは中学3年生の頃。お世辞にも設備が整っているとは言い難いグラウンドと草野球以下の実力に鼻で笑っては胸ぐらをつかまれたあの日。
 (あの頃は完全に見下していたよな、俺。)
 当時を思うとどれだけ井の中の蛙であったのかと苦笑してしまう。
 けれども茂野吾郎率いる聖秀野球部の一員となり、闘志を燃やし、ぶつかり合いながら切磋琢磨を繰り返すことで、聖秀野球部とともにいつの間にかこの場所が学校のどこよりも大切な場所へと変わっていた。


 そしてその「物好き」は、どうやら大河だけではなかったようで。
 ガララ……と戸が開かれる音と同時に聞こえたのは、彼がこの学校で誰よりも耳にしていた彼女の声だった。

「清水くん」
「マネージャー……」


 風に舞う長い黒髪を右手で押さえつつ、自身へと微笑む綾音を一瞥し再び背を向けた。
 どうしたの、さっきまでここにいたのに何しに来たの、などと問いかけることは互いにしなかった。そんなこと、分かりきっている。
「最後だから」
「うん」

 視線の先には、無数の足型。数十分前の胴上げと写真撮影の名残として、グラウンドにはたくさんの足跡が変わらず並んでいる。それを踏まないようにと注意深く避けながら、綾音は大河の元へと歩みを進めた。
「さっきの胴上げ、すごかったね」
「あいつら容赦なさすぎだろ」
 腰を擦って顔をしかめる様子に綾音はプッと噴き出した。
 わっしょいわっしょいと威勢よく声を上げ、まるで示し合わせたかのように最後のカウントで腕を引っ込められてしまい、着地に失敗した大河は盛大に尻餅をつく羽目になってしまった。その瞬間の鬼の形相で、場の雰囲気が凍るものへと一転させてしまったことは言うまでもないだろう。その後服部が取り持ってくれたおかげで事なきを得、どっと笑いの渦がその場を包み込んだが、当の被害者は未だに引きずっているらしい。
「大丈夫? あれはちょっと痛そうだったから」
「じゃあ責任とってよ。マネージャーだって煽ってたじゃん」
「そうは言っても、清水くんだって去年も一昨年もやったでしょ」
 藤井先輩とか野口先輩とか、とこれまで盛り上げるための犠牲となった先代の名前を指折り数えてみせると、大河はフェンスに手を掛け「ったく」と悪態をついた。その様子にくすくすと笑いながら、綾音は隣に身を収めた。
「まあまあ。いいじゃない、最後なんだし」

 手すりに両肘をかけて空を仰ぐ大河を視界の隅に捉えつつ、綾音もまたフェンスに手をかけて屋上を見渡した。本日練習はなく、道具類はすべて部室へと片付けられているため、グラウンドは整然としている。
    引退してこの地へ足を踏み入れることはめっきり少なくなったものの、練習風景は昨日のことのように鮮やかに目の前に広がった。
「本当に今日でおしまいなんだね……やっぱり寂しいな……」
「そんな言うなら留年すれば?」
「しません!」
 それに、そんなことしたって意味ないもん。少しだけ唇を尖らせ俯き加減に呟いた。
「だって、私は『清水大河が率いる聖秀野球部』が好きだから」
 渋谷くん達が率いる野球部も気になるけど、私は『清水大河』率いる聖秀野球部の一員だから。離れがたいけれど、だからといっていつまでのこの場所に留まることは叶わない。

 虚をつかれたように目を瞬かせ、照れたようにして大河は目を泳がせる。が、すぐに視線を落とした。
「まあ、結局海堂とは対戦できなかったけどな」
 やっぱ茂野先輩はすげえよ。空を仰ぎ独り言ちる彼とそれを静かに聞く彼女の脳裏に浮かぶのは坂見台との試合だった。
 惜しくも海堂戦を目前にして敗れたあの最後の夏。それを思い返す度に胸の内に苦いものが少しだけ込み上がる。あの時、アウトになっていなければ。もう少しボールをよく見てバットに当てていれば。キャッチした後スムーズに送球ができていれば。キャプテンとして、チームのみんなに適切な声かけを行えていれば。思い返すとキリがない。
 もっとできることがあったのではないか。何度思い返したことだろう。

「でも、後悔はしてない、でしょ?」
 確信をもって尋ねる綾音に、大河は口元を緩めた。
 そう、後悔はない。先輩に対する劣等感も、自身の技量不足に苛立ちを覚えることも多々あったけれど。「お前らは、お前らだけのチームを作っていけばいいんだよ」と、吾郎から言われた言葉を胸に、あの夏の日までやってきた。

 結果はどうあれ、自分達がやってきたことは何一つ間違いではなかったのだと、無駄ではなかったのだということを、これまでの自身達と同様に夢を追っていこうとする後輩達の姿から改めて知ることができた。
 それと同様に、夢を託すこともできた。

「茂野先輩達はこの聖秀野球部を創った人達だし、本当にすごい人だけど、でもその先輩方にキャプテンを任された清水くんはやっぱりすごいと思うよ。先輩達の聖秀野球部も本当にすごかったし大好きだけど、それとは比べられないくらい私は『清水大河が率いた聖秀野球部』が大好きだもん」
 力強く華々しいプレースタイルではない、が、一人一人が自分のできることを最大限生かすことができる。みんなで「打倒海堂」という大きな目標に向かって、時に諍い、時に手を叩き合い言葉を交わし合って壁を越えていこうとする、『清水大河が率いる聖秀野球部』はそんなチームだった。
 そんなチームを作ることができたのは、清水大河率いるこのメンバーだったから。綾音の思いは揺るがない。
 このチームの一員でいられてよかった。
 貴方がキャプテンで、本当によかった。

「最後まで敵わねえなあ」
 どこまでも純粋なその言葉に、大河は大きく息を吐き、笑った。

「俺だって、お前がマネージャーでよかったよ」
 最初の頃はお節介に突っかかってくるうざいやつだと思ったこともあったけど。綾音とともに過ごした3年間を振り返ると、マネージャーがいない聖秀野球部というものはもはや想像ができない。それが、大河の正直な想いだった。
 マネージャーとして選手とともに「打倒海堂」目指し、日々業務を一生懸命こなす綾音の姿を一番知っているのはキャプテンである大河だった。道具の準備や記録整理、体調管理などマネージャーとしての仕事だけではない、誰に対しても常に明るく朗らかに部員と向き合う彼女本来の優しさや、選手と同等かそれ以上の熱い想いやひたむきさがあったから、大河は安心して背中を任せることができた。
 「信じる」という言葉に背中を押されたのはいつのことだったか。どれほど励まされ支えられただろう。彼女の言葉に、行動に、表情に、そして「鈴木綾音」という存在そのものに。
 聖秀野球部の誰よりも彼女を必要としていたのは、紛れもなく彼自身で。
 いつから、こんなにも。

「いつの間にか、」
 これまでも言いかけたことは何度となくあった。言わなかった、言えなかった原因はたくさんある。照れくささ、自分達の元キャプテンや彼女が慕う先輩への劣等感、諦観。そして何よりも、互いに聖秀野球部が大切だからこそ、大切な居場所と関係を壊してしまうのではないか、という恐れ。
 けれども、今なら言える。
「いつの間にか、俺はお前に救われていたんだ。選手としても、一人の人間としても」
 「マネージャー」からも、「鈴木綾音」からも、たくさん支えられていたんだ。「聖秀野球部の部員」としてだけではない、「清水大河」一個人としても必要としていたんだ。
 お前がいたから、後ろを振り返ることなく前を向き続けることができたんだよ。

 真っ直ぐに自身を見つめる大河に綾音は大きく目を見開いた。二人の間に沈黙が訪れる。が、やがて口元に弧を描き、柔らかい声で返した。
「私こそ清水くんに助けてもらってた。あなたが思っている以上に、私はあなたから力も元気も勇気だって貰ってたわ」
 大好きな居場所だからこそ、大切で、心配で。今思えば、かなり出しゃばりだったかもしれない。部員一人ひとりの気持ちが見えていないのに、信じ切れていないのに、「こうあるべき」を押し付けてしまったのではないか。そう思うと、口惜しさで胸がいっぱいになる。
 みんなと同じ土の上で汗と泥にまみれて一緒に戦うことはできない、マネージャーであって選手ではない、と線を引いて、だからこそみんなを支えなければと、「しっかりしなきゃ」と意気込んでは空回って。その度に「選手じゃなくてもマネージャーは同じ聖秀野球部の一員だろ」と示してくれたのはキャプテンである大河だった。

 「茂野先輩」という厚い壁を前に、「俺なんかじゃ」と悩み、傷つき苦しみ、時に部員とぶつかり合って拗ねたり落ち込んだりしながら、それでも、前を向いて 「打倒海堂」という目標に先陣を切って走り続ける大河。その姿は、部員にとっても、綾音にとっても本当に大きいもので。
 あなたがみんなを励ましたり、みんながいないところで一生懸命に努力を重ねたりしている姿を見て、私ももっとみんなの――あなたの支えになりたいって思ったの。
 あなたが頑張っていたから、私も頑張ろうって思ったんだよ。


 この手が悩む背に触れられず、力なく振り落とされることもあった。途方に暮れ落ち込む横顔に、かける言葉が見つからなくて歯がゆさを感じることもあった。激しい想いをぶつけ合い、その度に言葉と想いを通い合わせたこともあった。それらを何度も何度も繰り返したからこそ今の二人がいる。

 そして、二人は新しく拓けた道の入り口に立っている。

「もう『キャプテン』でも『マネージャー』でもないけど、お前に、隣にいてほしい」
 ――これからも。息をつくようにして紡がれた言葉に、綾音の顔が自然と綻んだ。
 もはや、聖秀野球部員でもない。キャプテンでも、マネージャーでもない。ただの『清水大河』と『鈴木綾音』だけれども、共に重ねた日々は確かに今も二人の中に息づいている。
「うん。私も、あなたと一緒がいい」
 これまで築いてきた場所から立ち去ることの寂しさや恐怖も勿論あるけれど、新たな道であっても同じ前を向いて一緒に歩いていけたなら。そしてその想いを、目の前にいるその人も同じように抱いてくれているのなら。これほどまで強くいられることはない。
 一人じゃない。一緒にいる。

 扉を開き、二人は屋上を後にした。それぞれが進みゆく未来へ、ともに軌跡を描くために。



【補足】
脳内BGMはずばりレミオロメンの「3月9日」と「未来へ」(作詞:谷川俊太郎、作曲:信長貴富)です。笑
のぎちゃん(@ka___bnog_1 )の素敵なツイートを参考にさせていただきました!本当にありがとうございました!