昔も今も

 

 

 

 

 本格的な暑さがじりじりと身体を蝕む今日も、通常通りのメニューで練習を行う予定だ。
 今朝のニュースでは、「今日は真夏日になるでしょう」と気象予報士が熱中症警戒を呼び掛けていた。他にも、つい昨日屋内で部活中だったある生徒が倒れたという、とても他人事とは思えない出来事が発生したことから、「熱中症にはくれぐれも気を付けるように」と部活前に山田先生からも念を押されたのを思い出す。
 とはいえ、県大会地区予選を一週間後に控えた今日、みんなこれまで以上に熱を入れて練習に励むであろうことは目に見えている。こういう時こそ冷静に体調管理しなきゃと、マネージャーである私はより一層気を引き締めて準備に取り掛かった。



 足元に広がる影が小さく縮んでいることに気付き、時刻を確認する。
 そろそろランニングが終わる頃かな。屋上にてバッティング練習を行っているのと並行して、今の時間は先日の練習で運悪く怪我をしてしまった部員が校内周辺の走り込みを行っているはずだ。
 以前はマネージャーが二人いたからグラウンドと外周組とに分かれて対応にあたれたけれど、一人だとそうはいかない。体がもう一人分あったらなあ、と、考えたって仕方がないと分かってはいるけれど、「もっと要領よくこなせれば」という思いは絶えず胸の内に渦巻いている。
 誰にも悟られないようにと小さく小さくため息をついた。「打倒海堂」という野球部創立から掲げる目標を今度こそ達成できるように。みんなが万全の態勢で練習に、試合に臨めるように。こうしたい、という気持ちばかりが急いてしまって、ひりひりとした焦燥感に苛まれる。身動きが、取れなくなってしまいそう。


 頬を伝うひやっとした汗の感覚にはっとして、頭を振った。
 だめだめ、しっかりしなきゃ。頬を軽く叩いて部員達の動きに目を向けた。
 今は何の時間? 私がやるべきことは? 部員達の練習メニューを頭に描きつつそれに合わせて私の仕事を再度確認する。屋上ではいまだにバッティング練習が続いているけれど、もうしばらくしたら内野中心でノックが始まるだろう。それまでに、コンテナいっぱいに詰め込まれた硬式ボールを屋上の扉周辺に固めておかなくちゃ。
 再び溢れ出そうになったため息を飲み込みながら、必要な道具を出しに取り掛かった。
    ぼうっとしている暇はない。上手く回さないと。思考の渦に巻き込まれないよう、必死で身体を動かした。

 いくつかの練習メニューの内容を先取りして準備を済ませた後、私は部員達に指示を飛ばす清水くんへ声を掛けた。
「清水くん、ここ、少し離れてもいい?」
「ああ、全然いいよ。外周組だろ?」
「うん」
 来る地区予選に向け、誰よりも気を引き締めて練習に臨む清水くんも、この暑さでどことなく疲れが滲んでいるように見えた。それでも、目に映る光は普段と変わらない強さを湛えていて。「地区予選まで日がない」という事実を差し引いても、彼の発する雰囲気が部全体の流れを決定づけさせているのは明白だった。メリハリをつけんと適度な緊張感を漂わせて部の中心に君臨する彼の影響力は絶大だ。
「こっちは大丈夫だから。外周組の様子見てきて」
「わかった。清水くん達も適当に休憩してね」
 へいへい、と背を向け片手をひらひらさせる清水くんを一瞥し、タオルとドリンクを手早く準備していると、背中から声を掛けられた。
「サボってたらしばいていいよ」
 にやっと含み笑いを浮かべる彼に一瞬息がつまり、ぷっと噴き出した。先程までのぴぃんとした空気が僅かに取り払われ、和やかなものへと変化する。
 敵わないなあ。
 ふとした瞬間に、何とはない言葉や態度でこんな風に場の雰囲気を作り上げてはチームを動かすキャプテンは、やっぱり聖秀野球部の大きな支えだ。いつから、こんなにも頼りになるキャプテンへとなっていたんだろう。彼とのやり取りで少しだけ肩の力が抜かれるとともに、先程まで胸の内を支配していた仄暗い焦りが少しだけ晴れていく。
 私もがんばらないと。
 「任せといて!」と笑い返して、屋上の扉を開けて階段を駆け下りた。


 選手をただ待ってタオルとドリンクを手渡すだけとはいえ、校門での待機はある意味屋上での道具出しや記録よりも体に堪えるものだった。
 さすがにグラウンドよりきついな。
 肌を差すじりじりとした熱。むんとする空気を吸い込むと、熱の塊が気管をひりひりと焼き付かせた。
 アスファルトからの照り返しに目がくらみそうになりながら、部員が走ってくるであろう方向へと視線を向ける。

 そういえば、前にもこんなことがあったっけ。
 2年前の地区予選。三船戦でのピッチャー返しにより、負傷した清水くん。けれどもその後の久里山戦でも怪我をおしてスライダーを投げたほか、久里山戦終盤にて勝利を収める結果となった渾身の送球。現在と比べて部員の人数に余裕はなかったからとはいえ、負傷した薬指には相当な負担がかかっていたはずだ。
 そのおかげで、海堂戦を間近に控えても満足な練習ができずランニングばかりの日々を送っていた。そう、ちょうど今と同じように。
 怪我でまともな練習ができずにランニングだなんて、あの時の誰かさんと一緒だね。
 今頃別メニューに移行しているであろう彼を思い浮かべ、屋上をちらりと見上げた。当時の彼は普段と変わらず飄々としていて、つまらなさそうにしている様子も練習に打ち込めなくて追い込まれている様子もわからなかったけれど、本当はどう思っていたのだろう。

 幸運なことに、彼は怪我をしていない。試合が始まってからどうなるかは分からないけれど、少なくとも今は怪我で練習に打ち込めない、なんてことはない。
 けれど、たとえあの時と同じように怪我をしたとしても清水くんが一人ランニングをすることはこの先二度とないだろう。彼はキャプテンだから。きっと、自分のことはおざなりにして部員の指導にあたっていくことだろう。
 そして私も、ランニング終わりの清水くんにタオルとドリンクを差し出すことはもうないんだろうな。

 荒い息遣いと一定の間隔で響く足音が段々と近づき、過去から一気に現在へと引き戻される。校門の前で足を止めながら膝に手を付き、はあはあと息を整える部員の傍へ笑みを浮かべて近づいた。
「お疲れさま」
「……あれ、鈴木先輩」
 目に汗が入るまいと袖で拭おうとする後輩にすかさずタオルとボトルを差し出す。
「あーあ。もうすぐ地区予選だってのに」
「仕方ないよ。怪我を治すことが先決」
「わかっちゃいますけど」
 口を尖らせ、タオルで顔全体を覆いながらぽつりと漏らした滲む声。ひどく覚えのあるそれに何と言えばよいかわからず、私は口を噤んだ。

 そうだよね、焦るよね。
 「怪我を治すのが先」だなんて言われなくても、これまで幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。それでもなお口をついて出てしまうのは、逸る気持ちが胸を焦げ付かせてしまうからなのかもしれない。
 今の私が、そうであるかのように。
 タオルから顔を覗かせてドリンクを一気に煽る様をぼんやりと眺めていると、部員は屋上に視線を向けた。
「先輩、俺なら大丈夫なんで屋上(うえ)に戻ってていいっすよ」
「いいのいいの。選手一人一人の体調管理も、マネージャーの仕事だから」
「そういって、ほんとはサボらないか見張ってたんでしょ」

 ひゅっ、と思わず素早く息を吸い込む。虚を突かれた。まさかあの時の彼と全く同じ言葉を返されるなんて。
 目を見開いてしばらく無言になっていると、「やっぱり」と笑いながら空になったドリンクを私に手渡した。
「当たりっすか」
「ううん! ただちょっと懐かしくなっちゃって」
「は?」
 何のことだかさっぱりわからないというように当惑しきった表情を浮かべる部員に、「ごめんね、ほんとになんでもないの」と両手をぶんぶんと振ってみせた。
 変わらないね。
 力量不足や故障などで、夢が遠く感じてくじけてしまいそうになるけれど。今の自分にできることは何かを見つけて、一つ一つこなしていくしかない。
 怪我故にこの場所でランニングに取り組んでいたあの頃の彼も。屋上で練習を取り仕切る今の彼も。うだる暑さの中、屋上で練習メニューをこなす部員も。そして、私も。同じなのだ。
 あの頃と変わらない目標を掲げて。みんなで、一緒に。
「来週からの地区予選、がんばろうね」

 昔の彼の面影を見ながら、いまだ意味がわからず当惑する目の前の後輩に背中へ手を伸ばし、ぱんとたたいた。