夕立

 

 

 

夏の天気は移り変わりが激しい。先程まで燦々と太陽が辺りを照り付けていたというのに、たった十数分で真っ黒な雲に覆われ、光を遮っている。少しの間揺られていた地下鉄を降りて地上へ出る頃には、本格的な土砂降り模様へとなってしまった。

「げ……」

「さっきまで晴れてたのにね」

一呼吸置いて階段を登りきった彼女も、残念そうに呟きながらしとどに降り続ける雨空を見上げた。

この雨の中、傘もなく街中を歩くことはしたくない。

自分一人だけなら、走っていくなりコンビニでも入って立ち読みついでにしばらく雨宿りをするなりしてやり過ごすだろう。けれど、今回は隣に彼女がいる。それをするのはいくら何でも忍びない。

 

後ろからぞろぞろと乗客が押し寄せてくる気配を感じて、彼女の肩に触れながら脇に寄った。乗客達も「うわ、最悪」「天気変わりすぎじゃない」など、急な天候の変化に対し口々に悪態を吐きながら同様に立ち往生している。

 

このままここにいるのは得策ではない。確か少し先にコンビニがあったはずだ。少し濡れることになるが致し方ないだろう。

「ひとまず出るか。邪魔になるし」

「あっ、待って」

がさごそと鞄の中に手を突っ込んでいると、「あった」と安堵の声を発しながらあるものを取り出した。

「びしょ濡れになるよりかはいいでしょ」

ぽかんと口を開ける俺に、彼女は「はい」とにっこりしながらパステル調の淡い桃色の折り畳み傘を差し出した。それを受け取り、傘を開きながらさっすが、と思わずため息を漏らした。

「持ってたのかよ……すげえな……」

「うん、天気予報で午後から夕立があるって言ってたから」

こういうところは相変わらずしっかりしてるな。天然なところはとことん天然っぷりを発揮するが、事前の情報収集や、それを受けての対策は怠らない。

マネージャー時代からお世話になっている用意周到っぷりには相変わらず舌を巻く。

 

水滴が開いた傘に跳ね返り、パラパラと音を立てる。

高校の頃と比べ身長差は十センチ程度まで広がり、そのことに若干誇らしさも感じる。傘の柄を握って真っ直ぐに差しながら彼女の方へ恭しく向くと、「ありがとうございます」と澄まし顔で笑いながら身体を傘の下へ滑り込ませてきた。それを受けて「こちらこそ、ご相伴に預かります」と営業スマイルよろしく頭を下げて見せれば、らしくないやり取りに二人してくすくすと笑い合った。

折り畳みの小さな傘の下、お互い濡れてしまうのは仕方がないけれど、少しでもその部分が少なくて済むように。いつもよりも距離を詰めながら歩き出した。

 

しかし、突然の風にはひとたまりもない。

びゅうっ、と前触れもなく吹き荒れる風が前触れもなく俺達を襲う。とっさに傘を盾にして風の吹く方へ向けるが、それよりも早く風向きが変わり、先程よりも強い風が背中から押し寄せてきた。

「わっ」

風が吹き付けると同時に、すぐ近くでバキバキッと嫌な音が響く。骨組みが逆方向に曲がり、折り畳み傘はもはや修復不可能な有り様になってしまった。

「そんなあ」

お気に入りだったのに、と隠しきれないショックを滲ませながら呟く彼女に、ごめん、と視線を落とした。

「壊しちまった」

「大河くんのせいじゃないよ」

風すごかったもん。口許に笑みを浮かべながらもその声にはわずかに悲しみが混ざっている。しかしそれもどんどんと強くなる雨足によってかき消された。雨は激しさを増し、肌や服を濡らしていった。

このままではまずい。

折れ曲がってしまった折り畳みの傘を出来る限り元の形に戻しながら畳むと、羽織っていたパーカーをさっと脱いで互いの頭に覆い被せた。

「こっち側持って」

「えっ!?」

「いいから!」

ちょっと走るぞ、と返事も待たず背中を押すと、わあ、と歓声をあげる彼女と共に道を駆け出す。所々で水溜まりに盛大に足を踏み入れてはびちゃびちゃと跳ね返り、水飛沫が雨と共にあちこちを濡らしていった。

 

ようやっと屋根のある近くのバス停まで辿り着くと、誰もいないのをいいことに二人してベンチに腰かけて身を投げ出した。

「結局濡れちゃったね」

    前髪をかき分けはあはあと息を整えながら、あはは、と彼女は苦笑した。低めとはいえ、パンプスを履いていた彼女にとってこの行為はなかなかきついものだったに違いない。結局走らせてしまったことに申し訳なさを感じながら、踵をあげながらヒールが折れていないか確かめる彼女に声を掛けた。

「大丈夫?    足痛かったろ」

「ううん、平気」

パーカー、ごめんね。びしょびしょになっちゃったね。眉をハの字に下げながら謝る彼女に、「全然」と敢えて何事もなかったように返した。

先程の雨により、身に纏っている彼女の服が二の腕や肩、鎖骨にぴったり張り付いている。胸元も普段は見えないはずの淡い色のレースがここぞとばかりに主張しており、思わず目を見開いた。

ぎょっとした顔になった俺に気づき、不思議そうに首をかしげるこいつは、今の自分の状態に気づいていない。

ったく、こういうところが無防備なんだよな。

慌てていまだ片方を握っていた裾を彼女から受け取り、ぐっしょりと重いパーカーを雑巾と同じ要領で絞った。雑巾とは違い、生地に厚みがあるために絞りづらくはあったが、軽く絞れば雨水がぼたぼたと滴り落ちる。たった少し傘代わりにしていただけなのにこれほどの量が染み込んでいたのだから、短時間とはいえ先程の雨脚の強さを思い知らされた。

「着といて。冷たいだろうけど」

絞った後、ぱん、と申し訳程度に皺を伸ばすと、幾分か硬めの声色でそう言いつつ、しっとり濡れた長い黒髪の上から両肩に羽織らせる。初め、片眉を上げて戸惑いの表情を浮かべていたがすぐに合点がいったようで、彼女は俯きながら袖を通し始めた。

「ご、ごめんね」

「別に」

衣擦れの音につい、と視線をそらしながら着終わるのを待つ。目に毒だ。それ以上に、彼女が他人からあのような姿を見られてしまうことは阻止したかった。彼女だってそれは本意ではないだろう。

胸元が隠れる程度までファスナーを上げてしまうと、目の前の人物はあでやかに顔を綻ばせた。

「ありがとう」

「いいって」

雨風によって顔に張り付いた髪の毛をそっと耳にかける。おずおずと顔を上げた彼女の、バス停まで走ったからだけではないであろう頬の熱が指をかすめつつ、そっと瞼を閉じた彼女へ顔を近づけた。

 

 

「この後どうしよっか」

先程の黒い雨雲は一体何処へ消えてしまったのか、空には再び燦々とした太陽が顔を出していた。

とりあえず、と左手に握ったままの彼女の折り畳み傘へちらりと視線を向けた後、再び彼女へ向き合う。

「新しい傘でも買いに行く?」

雨雲から射し込む太陽の光のように、きらめく笑みがぱあっと広がった。

「うん!」