前作「これまでもこれからも」(https://dawnyakky1610-starsunset-flfl.jimdo.com/これまでもこれからも/)の一年後のお話です(単体でお読みいただいても大丈夫な仕様にはなっています)。

 

 

 

以心伝心

 

 

 

 

 右手に持つのは三色ボールペン、そして左手に持つのは淡い桃色の手帳。今しがた印を付けたそれをにんまりと見つめ、訪れるであろうその時に想いを馳せる。

 今日からちょうど一週間後、世間一般で言う大型連休でもなければ週で唯一羽を休められる定休日でもない。普段と同様、週の中日に相当するその日。きっとその日もお客様の出入りは変わらないし、体調を崩したり突然の事故や不幸があったりしなければ子ども達も通常通り学校へ行って帰ってくることだろう。いつもと同じように家族を起こしながら慌ただしく食事の準備や掃除、洗濯をして、おしゃべりに花を咲かせつつお客様へマッサージを施す。そして、仕事を少しだけ早く切り上げて自宅に戻り、夕飯の準備をする。みんなで揃ってご飯を食べてお風呂に入って、寝室のベッドで眠りにつく。

 全くもって代わり映えのない一日。一年間365日の内の、たった一日にしか過ぎない。けれども、その「いつもと同じ」一日のうちに少しだけ「いつもと違う」ことをしたい。

 だってその日は私達にとって特別な日だもの。

 

 ――今年はちゃんと思い出した。

 すごいでしょ、と昨年の私と彼に自慢してやりたい。

 昨年の結婚記念日当日、彼も私も日々の生活をこなすことに必死で、その存在をすっかり忘れていた。

 いくらその日が私達にとって特別であっても、気づいた時にはとうに過ぎ去り日常の中に溶け込んでしまっていて。そんな時に、思いもよらぬ彼からのサプライズが舞い込んできたのだった。

 ケーキを隠すようにして冷蔵庫へとしまい込んだ昨年の彼の表情が、今でも時々脳内でひょっこり顔を覗かせては笑いを誘っている。サプライズなんてガラじゃない彼が精いっぱい取り繕って計画してくれたこと。何より、彼らしい飄々とした物言いの裏腹に、緊張を少しだけ滲ませて伝えてくれたことが嬉しくて。一年経った今でも、思い出しては心に灯りをともしている。

 「私も忘れてたし、何も言われなくても仕方ないか」「今更掘り起こしたところで惨めになるだけだし」と後ろ向きに考えて言及することもためらい、結局口を閉ざしてしまった私。けれど、そんな私に彼から歩み寄ってきてくれた。

 ケーキに過去と現在と未来への感謝と約束を携えて、彼は伝えてくれたから。今度は私が、それを伝えたい。

 

 

 

 一日を終える度に手帳へ×印を付け続けること一週間、瞬く間にその日はやってきた。

 会計処理が一通り終わってちらりと顔を盗み見ると、お客様と和やかに談笑する普段通りの彼がいる。傍目には気づいている様子は見られない。

 今年は私がびっくりさせるんだから。

 「よしっ」と密かにレジの下で拳を作って、一週間前と同様の決意を胸にお待ちいただいているお客様の元へ踵を返した。

 

 いつものように「夕飯の支度があるから」と彼よりも一足先に店を出て向かった先は、一年前、彼が買ってきたケーキ屋さん。

 ショーウィンドウに並ぶ可愛くておいしそうなケーキに胸を躍らせながら、その一方で彼の好みは何だったかと冷静に思い浮かべて注文する。

 年甲斐もなく心も体も弾ませながら家に着き、一番に冷蔵庫の扉を開けた。スペースを確保し、棚の奥に真っ白なケーキの箱をそっと入れる。

 どんな顔をするだろう。驚くかな。「忘れてた」とばつの悪そうな顔をするかもしれない。でもきっと、最後には少しだけ眉を下げてふっと笑ってくれるはず。

「早く帰ってこないかなあ」

    頬の緩みを感じながら、夕飯の支度をするため冷蔵庫の扉を閉めた。

 

 玄関が開く音と「ただいまー」という彼の声に、「おかえりなさい」と返しながら素知らぬ顔で夕食の準備を続けた。

 帰ってきたらまずはリビングのソファに座ってテレビを見るか、一旦自室に向かうか。仮にのどを潤すために冷蔵庫を開けたとしても、奥に収納されたそれに気づくことはないだろう。

 問題の当人はいつもと変わらぬ足取りで廊下を進む。と、リビングへ行くかと思いきやその足音は真っ直ぐキッチンへと向かってきた。どうやら、今回は「のどを潤す」ことを選択したらしい。

 目を向けず、まな板と野菜に視線を落としたまますぐ隣の彼の気配を探る。

 大丈夫。ばれやしない。少しだけ早くなった動悸を押さえようとさり気なく深呼吸する。変な反応をすれば、聡い彼のことだからたちまち気づいてしまうに違いない。息をひそめながら包丁を握る手に力を込めた。

 

「……は?」

 いつまでも冷蔵庫から離れようとしない彼に痺れを切らして振り返ると、奥に隠されていた白い箱が目に映る。心臓がドクンと跳ね上がった。

「えっ!? あの、えっとそれは……」

 まさかばれるとは思っていなくて、どうやって取り繕おうかとあたふたしているところにそれが目に入った。

「……うそっ」

 なんと彼の右手には、昨年の彼と全く同じお店の箱があったのだ。

 

 お互い答え合わせをせずとも、それが何なのか、どんな理由でそれを買ってきたのかは明白だった。

「もう!せっかくびっくりさせようと考えてたのに!」

「それを言うなら俺だって!」

「なんで今年はそんなに気づくの早いのよ!」

「お前こそ空気読めっての!」

「それは貴方もでしょ!」

 昨年のお返しとして驚かせようとしたのに、これでは作戦失敗だ。まさか、彼も今日が何の日かに気づいて同じものを買ってくるとは。完全に予想外だった。

 

 ポンポンと言葉の応酬は繰り返されていたけれど、それも長くは続かない。

    口論は次第に収まり、一息を吐こうと一瞬だけ沈黙が私達を包む。けれどそれが合図になってどちらからともなく噴き出し、しまいには腹を抱えて笑い出してしまった。

「ねえ! 二人してさっきから何笑ってんの」

 リビングでテレビを見ている我が子が訝し気に尋ねてきたけれど、それに応えることはできなかった。

 

 けれども数時間後、互いが買ってきたケーキの箱を開けて再び笑い転げることになるなんて、その時の私と彼は知る由もない。

 冷蔵庫に揃って入れられた白いケーキ箱の中には、私と彼が好みそうなケーキがそれぞれ並んでいた。

 

 

 

「なんだか、ますます似てきたよな」

 事の顛末を語ると、服部くんは朗らかに笑いながらそう返した。

 休日の午後のカフェは仕事を持ち込んで作業を進めるサラリーマンや家族連れ、中高生の女の子達、大学生くらいのカップルなどで席が埋まっている。そのうちの一つに腰を落ち着かせて、私達はささやかな同窓会を開いていた。

 高校卒業後、それぞれの道へ歩みを進めつつも「部活の仲間」という関係が消えることはなかった。卒業して久しいけれど、今も変わらず連絡を取り合ってはこうして定期的に会っている。

「でもまあ、高校の時から兆候はあったぞ」

 お前ら、あの頃よく言い合ってたろ。でもなんだかんだと息は合ってたもんな。

「先輩方から引退されてから特にさあ」

 阿吽の呼吸ってやつ?と一言置いて、中身が半分ほど入ったコーヒーカップをテーブルに置きながら、当時の出来事を懐かしそうに話し出した。

 ミーティングの時、大河が話の途中に目線を向けたと思ったらすぐまとめられたデータを読み上げたりとかさ。そんな感じのこと、結構あったろ。同意を求めるように言葉を振る服部くんだけど、

「そうだっけ?」

「それは、マネージャーの仕事だったし……当然なんじゃない?」

 残念ながらいまいちピンとこなくて首をかしげていると、彼は「そういうところもなんだよなあ」と笑みをこぼした。

 

 

 

「似た者同士だって、私達」

「らしいな」

 帰路に着きながら彼の言葉を思い出してぽつりと呟くと、どうやら隣を行く彼も同じことを考えていたようだ。

「似てるとか思ったこともなかったけど」

「私も」

 『夫婦は似てくる』という話は、私達に当てはめることはなくとも巷でよく聞く。

 私達が一緒になったのは卒業してから結構な年月が経った後だったから、百歩譲ってそれ以降に「似てるね」と言われるなら分かるけれど、彼に言わせると高校生の頃からそんな前兆はあったらしい。

「それにしても、ケーキの件は本当にびっくりしたよね」

「まさか倍の量のケーキを食べることになるとは思わねえもんな」

「もう当分ケーキはいいかも」

「そう言ってさっきも似たようなもん食ってたじゃん」

「だって、あそこのプリンおいしいって話題だったもの!」

 記念日当日、4人分に相当するケーキをひいひい言って食べながら交わした話題を、私は飽きもせず掘り返した。同じ話を繰り返すといつもなら「またかよ」と呆れたりげんなりしたりする彼も、このことに関しては心底驚いたようでこうして変わらず話に乗ってくる。

「でも、おいしかったよね」

「まーな」

 しまいには甘ったるさをコーヒーで中和させてどうにか食べ終えたケーキだったけれど、「買わなければよかった」という後悔もなければ「どうして買ってきたの」という非難もなかった。

 「あの日を特別に想っていたのは二人共一緒だった」という喜びの方がずっと大きかった。

 

 昨年は、彼が秘密裏にケーキを買ってきた。

 今年は、同じお店で別々に。

 それなら、来年は――。

 

「綾音」

 思いついた名案を隣りの彼に伝えようと口を開きかけたところで、彼が私の名前を呼んだ。いつもは「お前」、子どもがいる時は「母さん」と呼ばれることがほとんどで、こうして名前を呼ばれるのは久しぶりだ。胸の内がじんわりと温かくなっていくのがわかる。『貴方から名前を呼ばれる』、たったこれだけのことなのに。

「来年はさ。買いに行くか、一緒に」

 

「…………ふふっ」

 全身ががかっと熱くなった。

 すごい。

 これは服部くんに同意せざるを得ない。

「ふふっ、あははっ! あはははっ!」

「な、なんだよ」

 突然笑い出した私にぎょっとしながら、何がそんなにおかしいんだよ、と不貞腐れたように少しだけ声を荒げて彼はそっぽを向いた。おおかた、「自分の提案がそれほど『らしい』ものではなかったのか」とか、はたまた「とんでもなく見当違いのことを言ったのか」、とか「言わなきゃよかった」とか考えているのだろう。

   息を整えながら、違う違う、と両手をひらひら振って見せる。今すぐ彼を安心させなくちゃ。とっても嬉しかったんだと、伝えなくちゃ。

「おんなじこと言おうと思ってたの!」

 

 未来は誰にも分らないけれど、当然のように先のことを約束できること。全く同じ時に全く同じことを思い浮かべること。そして、分かち合いたいという想いを互いに持ち合わせていること。

 それは、すごく幸せなことなのかもしれない。

 

「来年は何がいいかなあ」

「今から考えるとか……どんだけ食いたいんだよ」

 「当分ケーキはいいんじゃなかったっけ?」にやにや顔で先刻の私の話を持ち出され、うっと言葉に詰まった。お風呂上りに体重計に乗っては落ち込む私を何度か目撃している彼は、ここぞとばかりに痛いところを突いてくる。

 とりあえず、くっくっと笑いを漏らす彼には気づかぬふりをすることにした。今から効果的なダイエットの方法を探した方がいいかなあ。

「まあ、どうせなら別のやつも食いたいよな」

「貴方だって食い意地張ってるじゃない。そんなこと言ってたら太るよ」

 自分のことは棚に上げて「野球部の頃と違って運動してないんですからね」と釘を差せば、「選手の体調管理もマネージャーの仕事ってか」と茶々を入れられる。なるほど、そう来たか。

「それを言うならパートナーの仕事」

 ふふん、とすまし顔で返す。我ながら上手いことを言ったかも、次はどう返されるかと内心ほくそ笑んでいると、さも当然のように彼は言った。

「変わんねーじゃん。それは昔も今も一緒だろ」

「……確かに」

 昔は共に『打倒海堂』を目指して共に聖秀野球部を引っ張る相棒として。今は同じ生涯を共に歩んでいく相棒として。変わらず、背中を預け合い支え合うパートナーとして。貴方と一緒に歩んでいく。

 これまでも、そしてこれからも。