部室から出ると、ちょうど下校時刻を知らせる放送が鳴り響いていた。ぬるい風が吹き抜け、汗ばんだ身体を少しだけ冷ましていく。

 暦の上ではすっかり秋ではあるけれど、日中の気温や陽射しはまだまだ残暑のそれであり、未だに熱中症の心配も尽きない状況だ。しかし、今日は早めに部活を切り上げたため、他の部員は既にいない。

 先ほどまで辺り一面を照らしていた夕焼けは段々と成りを潜め、少しずつ宵闇が差し迫った西の空には一つの星が瞬いていた。

 

 そういやあの人、今どんな感じだっけ。

 姉貴から嫌というほど話を聞かされていたものの、情報はほとんど右から左へと流しており、近況はさっぱり分からなかった。

 

 あの一番星は打倒海堂に飽きたらず、新たな夢を追うために卒業式に出席することもないまま渡米し、実現させようと着々と歩みを進めている。

 まさに、『有言実行』を体現したような男。

 聖秀を去った後もその存在感が薄くなることはなく、今もなお影響を与え続けていた。

 事あるごとに頭に現れては(たとえ意識していなくても外野に思い出させられることもある。渋谷とか姉貴とか)こちらのことなどお構いなしにかき乱していくため、精神衛生上ちっともよろしくない。

 あークソ、うぜえったらねえ。

 

「――清水くん!」

 近くで俺が出てくるのを見計らっていたのだろう、マネージャーはタイミングよくパタパタと駆け寄ってきた。

「悪い、遅くなった」

「もう、部室で寝ちゃってるのかと思ったよ!」

 部室の鍵を握り直し、「部停になっちゃうから早く早く!」と焦れたように昇降口へ向かう背中を追いかけた。

「へいへい」

 

 

 幸い下校完了時刻を過ぎる前に職員室へ返却することができたため、先生からのお咎めもなく悠々と校舎を後にした。

 先程まで辺りを染めていたオレンジ色の光はすっかり消え、一つしか瞬いていなかったあの星も他の星に紛れて一瞬の内には見つけ出せなくなっていた。

「あ、金星」

 そんな中でもマネージャーはあっという間に例の星を探し出し、少し後ろを歩く俺に振り向いて指差した。

「ほら、あれ! 清水くん分かる?」

「まあ分かるけど、よくそんなすぐに見つけられるな」

「宵の明星だもの。他の星よりも一際明るいから分かりやすいでしょ」

 まだ完全には夜を迎えていないとはいえ他の星が瞬き始めた中一瞬で見つけ出すのは、それはそれですごいのではないだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら進んでいると、「あ」と思い出したように声を上げ、マネージャーは隣に駆け寄ってきた。

「次の秋季大会のデータ収集、終わったらすぐ渡すね」

「ん、よろしく」

「任せといて!」

 ぐっと拳を作り、意気揚々とした様子で笑った。

「今年はもう大会終わっちゃったけど、だからって気なんて抜いてられないもの。来年への打倒海堂の道はもうすでに始まってるからね!」

 

 相変わらず頼もしい。

 無数の星の中から一つを見つけ出すように、周囲の状況をよく見て最善の行動をする。それがキャプテンとして見た時の、マネージャーの印象だった。

 部員は昨年度と変わらないものの、マネージャーは一人になったため、仕事量は単純に2倍になっている。けれども昨年度と変わらず仕事は早く、的確だ。マネージャーがいなければ、部の活動の質も効率も目に見えて落ちるだろう。

 選手ではない。だからこそ、自分が出来ることを精一杯しようという意思は強く、思うことがあれば真正面から反論することも厭わない。

 それもこれも、「聖秀野球部が大好き」という想い故なのだろう。

 ……俺はそれが鬱陶しく感じることもあるし、眩しいとも、思う。

 

 相手の状況とか心情とかそういうことを考慮していないんじゃないかと勘繰ってしまうくらい、あくまでマネージャーとして部のことを考え、正論すぎる意見を真っ直ぐぶつけてくる言動にイラッとすることだって少なくないけれど。時折言い合いになることもあるけれど。

 

 選手でなくても、うちの裏方の大事な戦力。キャプテンとして、マネージャーとして、背中を預けられる存在。

 

 そして、それとは違う別の何かが芽生えつつあることも、なんとなく気づいている。それが、どのようなものかも。

 とはいえそれを明確にするつもりはない。

 色々と思うところもあるけれど、一番は「打倒海堂」を掲げて同じ方向を向いている、キャプテンやマネージャーとして部を引っ張っていくことの方が今の俺にとっては大事だった。

 

 ……まあ、どちらにしても直接伝えるつもりはさらさら無いけれど。

 少なくとも今は、まだ。

 

 

「まるで受験生みたいな言い方だな」

「うっ…そうだった……それも考えないと……」

 天王山は打倒海堂だけじゃないもんね……と、胸を押さえあからさまに明後日の方向を向く様がおかしくて、ぶはっと吹き出した。

 

 ――何てったって、始まったばっかだもんな。

 スタートを告げる合図は1年前キャプテンになったあの日からとっくに出されていた。けれども、その時点でスタートを切れていたかどうかはまた別だった。

 

 これまでキャプテンとして部に関わっていたものの、振り返ってみると苦い記憶の方が断然多い。

 練習メニューの組み方を始めとした技術の向上や、上手く立ち回りながら部員一人一人の様子を気がけ、「打倒海堂」という明確なビジョンを部員全員が共通認識して試合に望めるようなチームワークの構築。

 前者はともかく、後者を見るとお世辞にも「いいキャプテン」とは言えないはずだ。

 

 そんな中で今年の夏の大会が終わり、一つ上の先輩達も引退した。何かとフォローしていただいていた頼れる先輩方はもういない。

 いよいよ俺が、俺達の学年が先頭に立って部を引っ張っていかなければならない。

 

 キャプテンとなってからもう1年が過ぎており、いささか遅すぎるような気もするけれど。遅ればせながら、今度こそそのスタートを切ろう。

 

 未来のことなんて見えない。先輩みたく、全てをなげうってでも成し遂げるような熱意も覚悟も才能もあるわけではない。だから立ち止まってしまいそうになることもあるけれど、何もかも嫌になって投げ出したくなることもあるけれど。

 あの星を追いかけようと、あの星のようになろうと躍起になるのではない。他の光に埋もれても、進度は遅くても、俺達の力で俺達なりに突き進んでいこう。

 一人じゃない。共に「打倒海堂」を目指す仲間と一緒に。

『お前らは、お前らのチームを作っていけばいいんだよ』

 ウザいはずのあの人の言葉が、いつになくすっと胸に染み渡った。

 

 

ペリペティア

パレット弐12【ペリペティア[ギリシャ語・冒険]:(告げる・背中・一番星)】