16.発展途上

 

 

 

 

 今日はいつもよりも早く学校についたから時間に余裕はある。けれど、私と同じように早く来る誰かがいるかもしれない。その思いが職員室への足取りを速めた。

    みんなが来る前に軽くボール磨きでもしとこうかな。部活が始まるまでにやることを頭の中でいくつか挙げながら、人もまばらな廊下を進んだ。朝練前の部室の開錠はマネージャーの役目だから、当然今日ここを訪れるのは部員の中で私が一番最初。そのはずだった。

    けれどもいざ職員室の前まで訪れると、目に飛び込んできたのは鍵を手にして扉から出てくる彼の姿だった。

「おはよう! 鍵ごめんね」

「別に。ちょっと早く着いただけだし」

 早いねえ。私は清水くんから鍵を受け取り、元来た道を今度は二人で引き返した。

「春休みの宿題、もう終わった?」

「まあね。最後まで残しとくと後が絶対だるいし」

 渋谷とかは今日の夜までかかるんだろうけど?半目で小ばかにしたような清水くんの声を聴きながら、ほんの2、3日前、部活で絶望的な声をあげつつ頭を抱えていた後輩達を思い浮かべて苦笑した。部活と勉学との両立は、中高生にとって切り離すことのできない命題だ。私も他人のことは言えやしない。

 

 他愛もないやりとりをしていると、あっという間に目的地へとたどり着いた。他の部活も朝から練習のはずだけれど、いつもよりも少しだけ早い時間だからか部室棟はしんと静まりかえっている。そのうちの一室へ近づく二人分の足音だけが響いた。

     鍵を開けると、ドアから差し込まれた陽の光で埃がゆらゆらと照らされていた。その中を突き進み、それぞれのロッカーで荷物を置く。視界の隅に、今は使われていない三つのロッカーが映って手を止めた。

    普段から使っていることもあり、埃はさほど溜まってはいない。夏の県大会地区予選まで毎日のように使用していた野口先輩、高橋先輩、山本先輩が先日の卒業式で去られてから持ち主はおらず、使われることなくひっそりと佇んでいた。

「ロッカー、みんなが来る前に水拭きしとこうかな」

「卒業前に先輩達が掃除してたじゃん」

「うん。……でも、もう一回」

    空っぽのロッカーがやけに寒々しく、存在感が薄れて朧げになっていくようで、私はバケツと雑巾を持って外へ駆け出した。

 

    卒業式から約一か月が過ぎた。とはいえ、先輩方が引退されてからは1、2年生だけで聖秀を回していたから、練習内容や部内の雰囲気など、環境が大きく変わった訳ではない。

    けれど、卒業式を終えていよいよ先輩方が去られたことで、聖秀野球部全体の様子に反して私の中に微かに存在していた心もとなさが浮き彫りになっていった。

 

   「先輩方の引退や卒業」は、それこそ友ノ浦中時代から何度も迎えてきたから、もう慣れっこのはずだったのに。

    寂しさをにじませつつも、それ以上にやる気に満ち満ちて胸を躍らせながら、「任せてください」と当時の同期達と胸を張って送り出した中学時代の私と今の私とはまるで別人だ。あの頃と今では、掲げている目標も、野球に対する姿勢も、背負っているものも、そして、一緒に立ち向かっていくメンバーも違うのだから、当然と言えば当然だけど。

    日々の活動のことで頭がいっぱいでいつもは気にも留めないけれど、時々思い出したかのように主張するぽっかりとした心の穴。それを埋めることができないまま今に至る。

 

    バケツに水を汲んで雑巾を浸けると、横からもう一枚の雑巾が入れられた。振り向くよりも先に、手早く着替えた彼が私の傍に腰を下ろし、二枚分の雑巾を硬く絞る。私が何か言う隙も与えず、あれよあれよという間にバケツの取っ手を掴んで立ち上がった。と、流れるような所作にあっけにとられていた私に、彼は絞り終えたもう一枚の雑巾を無言で差し出した。

「あ、ありがとう」

 雑巾を受け取りやっとの思いでそれだけ伝えると、背を向けたままただ一言「どーも」とだけ返して、そのまま部室へと歩き出した。

 

    つい半年前まで使用し、卒業間近に「これまでの感謝を込めて」と先輩方の手によって拭きあげられたこのロッカーも、入学式が終われば新入部員が使うこととなる。

「新入生、何人くらい来るかなあ」

「さあ……でも、最低野球ができるくらいの人数は確保しねーと」

    明日からいよいよ3年生、私達にとって最後の年が始まる。先輩達が引退して新入部員が入部してくる。

    今度こそ、創立以来掲げてきた『打倒海堂』を実現させることができるだろうか。これまでの先輩達と同じように、今度は先輩達のいないこの聖秀野球部を、私達だけの力で、達成できるだろうか。

    数か月後、「最後」は必ず訪れる。その時私は、どのように迎えるのだろう。

 

 ちらりと隣の彼を盗み見ると、普段の学校生活での彼からはすぐには想像できないほど、丁寧にロッカーを拭きあげている。キャプテンとして聖秀野球部の先頭に立つ彼の「聖秀野球部」に掛ける思いがいかに重く、強いものであるかは、そばでともに聖秀を作ってきた私達なら分かる。

    胸に燃える静かな炎は、静かな横顔の彼にもきっとある。彼だけじゃない、『打倒海堂』を目標に部員の誰もが胸に灯火を掲げている。先輩方の、私達の、そしてこれから新たに出会うであろう新入部員を含めた聖秀野球部全員の想いを胸に。

 答えの出ない問いを繰り返してしまうけれど、立ち止まっている時間はない。今もなお存在し続ける空洞や仄暗い不安にばかりに目を向けてはいられない。胸の内に熱く光り輝く炎を抱いて歩みを進めていきたい。

 

 『打倒海堂』という、先代から続く夢を途絶えさせたくない。他愛ないいざこざを繰り返して、その度に信頼関係を築いてともに夢を追い求めてきた『清水大河率いる聖秀野球部』のメンバーとして、まだ見えぬ仲間とともに夢を追い求めていきたい。

    「最後」を迎えるその時まで。

 

    やがて外が活気づき他の部員達が訪れるまで、私達は一言も交わすことなくロッカーの水拭きに徹した。

 

 

 

 

 

 

 暦の上では既に春を迎えているものの、吹き荒ぶ潮風は未だひんやりとしてぶるっと背中を震わせた。国家試験を無事に合格しこの春から晴れて美容師となることが決定している彼は、スーツにネクタイ、革靴を身に着けている。待ち合わせの場所に訪れた彼のその姿に目を奪われ、ほんの少しだけかっこいい、と思ったのは私だけの秘密だ。

     けれどかしこまった格好も、十数日後に控えた就職先の説明会を無事に終え開放感に満ち溢れた彼を前にしては、どこかラフな印象へと様変わりする。現に今、「もう終わったんだからどうでもいい」と言わんばかりに、彼はお尻が汚れることも厭わず堤防にどっかりと座ってコンビニの袋をあさり始めた。

 それにしても。

「清水くんがネクタイなんて、なんだか見慣れない」

「中学ん時は毎日してたけどな」

    慣れた手つきで首元を緩めてペットボトル内の飲料水を煽る彼を横目で見ながら、私はもそもそと菓子パンを口に頬張った。

    各言う私もグレーのスーツに身を包んでいる。けれども、私は彼と同じように就職先の説明会帰りという訳でも、ましてや就職活動中という訳でもない。ただの実習先の説明会帰りの身だ。彼とは学科もカリキュラムも年数も違う大学に通っているから当然と言えば当然で、私達の進む道が重なることはまずない。

    スーツに着せられているかのようで肩に力が入ってしまってちっとも慣れない私と、まるでずっと前から着こなしているかのように馴染んでしまっている彼。ほんの少しの羨望と疎外感がちくりと胸を刺し、目をそらした。同じスーツ姿でも、彼と私とでは置かれた状況も意識も目標も、そのすべての意味合いが全く違う。

 

「4月から美容師なんだね」

「そうだな。ま、最初はアシスタントからだけど」

 就職先が決まった彼には彼なりの、きっと私には計り知れないほどの不安が心に住み着いてるに違いなかった。けれども、自分の進むべき道を定め、今まさにそこへ向かわんとする彼の横顔は、未だ向かうべき道すらも見出せていない私から見るとただただ眩しい。私も、こんな風になれるのだろうか。

    スーツ姿の私達はひどく場違いで、時折私達の後ろを通り過ぎるおじさん達の物珍しそうな視線に居心地の悪さを感じる。けれどそれはどうやら私だけのようで、隣の彼は白波を静かに見つめながら、食べかけのおにぎりを頬張っていた。おじさん達の視線など物ともせず、ただ吹きつける風に顔をしかめるだけだった。

    間隔を開けて釣竿を片手に魚が引っかかるのをのんびりと待つおじさん達以外には、堤防には誰もいない。

 

    荒々しい風と潮の香りを全身に受けながら彼に倣って白波を見つめていると、海原に一人覚束なく漂っているような気がした。

 これからどこへ向かうのだろう。どんな未来が待ち受けているのだろう。

釣り竿に繋がれたウキはいずれ持ち主のところへ戻されるけど、私達は何からも繋がれてはおらず、舵は自分で取るしかない。

 堤防から身を乗り出して海面を覗いてみても、濁っていて底は見えない。見えるのはゆらゆらと揺れる波のみだ。

 

    それでも、立ち止まっている訳にはいかない。たとえ目標が不明瞭でも、足を止めずにがむしゃらに突き進まなくちゃ。不透明な海面に映し出される仄暗い不安にずぶずぶと沈んで動けなくならないよう、かぶりを振った。

    一足先に前へ進もうとする彼の背を後方から見つめつつ、彼と同じように新たな世界へと踏み出す道を模索していかなければ。

 

 

 

 

 

 

「なあ、別にどこも変なとこねえよな」

「大丈夫だってば」

    本日何度目かもわからない彼の問いかけに少しだけ呆れながら、私もまた本日何度目かとなる同じ言葉を返した。

    元来より冷静沈着で、むしろいつもは慌ただしくしている私をからかったりたしなめたりすることの多い彼だけど、今日に限ってリビングと鏡を往復してそわそわと落ち着きがない。心なしか、おしゃべりも普段より多い気がする。

    今回はさすがに緊張しているらしい。まあ、それは私も一緒だけど。

「前にも会ってるんだから、そんなにガチガチにならなくても」

「お前……そりゃ自分ちに行くなら余裕だろうけどさ、今度うちに行くときは嫌でもこうなるんだからな」

「う……」

 私を連れて彼の実家へ行くのは再来週だからまだ余裕はあるけれど、きっとあっという間にその日はやってくる。彼と同様、私も以前おとうさんやおかあさんとお会いしたけれど、以前と来る次回の訪問では重みが全く違う。

 来るその日を思って今から緊張し出した私に、強張っていた彼の表情が一変して、ぷっと噴き出した。

「なーに今から緊張してんだよ」

「だって……」

    ポンポンと軽く肩を叩きつつ、「まあどうにかなるっしょ」とジャケットを羽織った。彼の方が私の何倍もドキドキしているはずなのに、こういうところはもうずっと前から敵わない。

    くよくよしても仕方がない。何とかなる。

 

    会話をしつつも卒なく支度を終えた彼は、パリッとした皺のないスーツを身に纏っている。堤防で話していた時に着ていたリクルートスーツではないけれど、あの頃と変わらずやっぱりかっこいい。

「何?」

「ううん」

 一人遠い過去をに浸っていた私を怪訝そうな表情で見つめる彼を余所目に、ふふっと目を細めた。

 

「あっ、待って」

    少しだけ緩んだネクタイの結び目に手を掛ける。肌触りのよいするするとした生地を指でなぞり、手際よくキュッと締めた。

    職業柄、彼がネクタイをすることはほとんどないけれど、ごくたまに、挨拶周りや結婚式へ向かう際には今のようなスーツ姿になる時は「ネクタイさせて!」と頼んで結わせてくれることがあった。

    高校の体育祭で、友達と一緒にお遊びでハチマキをネクタイに見立てて結ったことがあったから、あの時と同じ感覚でできると思っていた。けれど。実際は意外にも手間取ってしまって、初めてした時は危うく窒息させてしまうところだったっけ。

 

「上手くなったじゃん。最初は締めすぎて殺されるかと思ったけど」

    当時と同じことを思い出していたのか、しみじみとしつつもどこかからかいの色をにじませながら任せる彼に、ムッとした顔を作ってみせながら少しだけ誇らしげに胸を反らした。

「でしょう。私だって繰り返し練習すれば上手にできるんだから」

    はい、おしまい。ぽん、と胸を軽くたたき、バッグと手土産袋を持って玄関へと向かった。

    目まぐるしく移りゆく時の中で、変わってしまったものも置き去りにせざるを得なかったものも、正直あった。居心地のよかった大切な居場所に別れを告げ、新たな世界の入り口に立つのはいつだって勇気が必要だった。

 蔓延る不安が胸を締め付けて身動きが取れないこともある。立ち止まったり、後ろばかりを気にしてしまったりすることもある。

 それでも、一人じゃない。

    前も、今も、これからも。私達は同じ方向を向いて歩いていく。そしてそのための第一歩となる日は、今日だ。

 

    扉を開けると暖かな陽射しが辺り一面を照らしていた。目線を上に向ければ透き通った青空がどこまでも続いている。

    この時が、連続した日々の、私達が培ってきた日々の延長線上に位置するものでしかない。この日が人生においてただの中継地点であることは分かっている。それでも、この時は私達にとっての新たな始まりでもあるから。

    鍵を閉め、どちらからともなくそっと手を取って一歩を踏み出した。

「いってきます」

    次なるステージへ、一緒に進むために。

 

 

 

 

 

 

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別タイトル:スタートライン